パルテノン、パルテノン、あなたは一体誰なのか?
パルテノン
パルテノン
あなたはいったい誰なのか
パルテノは明治のギリシャヨーグルト
パルテノン神殿はギリシャの神殿、そのあるじはアテナ
パルテノス、星座でいえばおとめ座、処女宮、誰を指すのか諸説あり、
パルプンテ それはドラクエに出てくる何が起こるかよくわらかない魔法
パルテノン、コリント書7章に出てくるこのギリシャ語は一体だれを指すものなのか…
来週の主日礼拝から第一コリント書の連続講解説教にもどります。
来週の礼拝の中で取り扱う聖書個所はその第一コリント書の最難関箇所とされている7章後半なんです。
いやはや困った、こまった、本当にこまった。
とても同じギリシャ語を翻訳したとは思えないほど、7章36~38節の訳文が邦訳聖書の中でも全然違うのです。
新共同訳と新改訳3版と新約訳2017 との間でも全部違います。
ある聖書ではおとめ、ある聖書では未婚の女、ある聖書では婚約者、ある聖書では自分の娘、ある聖書では自分のパートナーという。そのくせ、このパルテノン、おとめで未婚なのに他の独身者とは違うらしい、(独身者には別の単語が当てがわれている)
新共同訳はリベラルな神学者がいう霊的結婚説をとる
パルテノンとは、プラトニックな疑似的な結婚あいてとみる
現在支持する神学者は一番多い、最有力説ではあるけれど、そもそも霊的結婚は2世紀以降には確認できるらしいのだが、コリント書がかかれた1世紀の時点では霊的結婚があった根拠がないのと、そもそもこのプラトニックな結婚なんていうのを7章の冒頭でパウロが否定してる。
新改訳第三版はパルテノンを自分の子どもとみる伝統的な解釈でレオンモリスもこの解釈みたい。あと、教父もこの解釈だそうだ。しかし、それなら自分の娘をどうして、「自分のパルテノン(おとめ、処女)」というへんな言い回しでいうのだろう。
新改訳2017年はパルテノンを36~38節に限って婚約者と読むブルースの解釈を採用したみたいだけど、7章の中段当たりからずーっとパルテノンは出てきててここだけ婚約者と読むのはいかがなものか…
どの説をとっても無理があるような気がする。
そして、パルテノンを娘にするか婚約者にするか霊的結婚相手とみるかで「ある人」はパルテノンの親なのか、パルテノンの婚約者なのかパルテノンの夫なのかが変わってきてしまい、
次の「ピークを超える」という単語が「婚期を過ぎる」と訳してパルテノンを説明するのか、「一線を超える」と訳して、パルテノンの相手方を説明しているのかも分からなくなってくる。
ああ、このままでは来週の日曜日、説教題を当日の朝改題して
「パルテノン、パルテノン、あなたはいったい誰なのか?」
にしてしまおうかしら、
来週の日曜日の説教は「ひとり身の家族となってくれる教会」
もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。
新共同訳(第一コリント書7章36~38節)
もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行うことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。
新改訳第3版(第一コリント書7章36~38節)
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。
しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。
ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。(第一コリント書7章36~38節)
サムネイルは フレデリック・エドウィン・チャーチ 作「パルテノン神殿」 (1871)
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