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サブカルを神学してみた

Kvi Baba「Friends, Family & God」を神学してみた。―教会が知らないところで、若者は「神様ありがとう」を聴いている

Kvi Babaは1999年、大阪府茨木市生まれのラッパー、シンガーソングライターです。孤独、不安、自己嫌悪、家族の崩壊。自分の内側にある暗い感情を隠さず、それを歌とラップの間を行き来するような独特の声で表現してきました。2019年にEP『Natural Born Pain』を発表。直訳すれば「生まれながらの痛み」です。そして2023年、トイズファクトリーからメジャー1stアルバムを発表します。タイトルは、なんと『Jesus Loves You』。
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スヌーピーを神学してみた(4)―かぼちゃ大王は来なかった。でも、ルーシーは来た

『ピーナッツ』をあまり知らない方のために説明しておきます。ライナスには、少し変わった信仰があります。毎年ハロウィーンの夜になると、世界でいちばん「誠実な」かぼちゃ畑から、かぼちゃ大王が現れる。そして、よい子どもたちにおもちゃを届けてくれる――彼はそう信じています。友だちは仮装して、お菓子をもらいに町へ出かけます。しかしライナスは畑に残ります。毛布にくるまり、夜空を見上げ、かぼちゃ大王を待ち続けるのです。しかも、自分一人で信じるだけではありません。チャーリー・ブラウンの妹サリーを誘い、とうとう一緒に待たせてしまいます。
お知らせ

2026年度2学期のエンジョイプレイスが始りました。

一昨日から二学期が始まり、昨日からエンジョイプレイスも再開しました。昨日は暑い中、64人の子ども達が集いました😊フルーツ...
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スヌーピーを神学してみた(3)―負け続けるチャーリー・ブラウンは、ヨブだったのか

チャーリー・ブラウンほど、報われない主人公も珍しいでしょう。野球をすれば負ける。凧を揚げれば木に引っかかる。勇気を出してフットボールを蹴ろうとすれば、ルーシーが直前にボールを引っ込める。憧れの赤毛の女の子には、なかなか声さえかけられません。普通、物語の主人公は成長します。最初は弱くても、特訓して強くなる。失敗を重ねても、最後には成功する。だから私たちは安心して見ていられます。「いまは負けているけれど、この失敗はきっと最終回の勝利につながる」と思えるからです。ところが、チャーリー・ブラウンは、何十年たってもボールを蹴らせてもらえません。いや、そろそろ学習しようよ。読者はそう思います。しかし彼は、次の秋になると、またルーシーを信じて走り出すのです。そんな彼を見ていると、聖書に出てくる一人の人物を思い出します。ヨブです。
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スヌーピーを神学してみた(2)―聖書を教えた漫画家は、なぜ教会から離れたのか

スヌーピーと聞いて、まず「キリスト教」を思い浮かべる人は、たぶん少ないでしょう。白い犬。赤い屋根。黄色い鳥。マグカップに文房具。かわいくて、少しとぼけていて、ときどき妙に人生の核心を突いてくる。けれども、その犬を生み出したチャールズ・M・シュルツは、一時期、教会で聖書を教えていた人でした。それだけ聞けば、話は簡単です。「なるほど。『ピーナッツ』は、敬虔なクリスチャン漫画家が描いたキリスト教漫画だったのか」しかし、調べていくと、そんなにきれいにはまとまりません。彼は教会に熱心に通い、聖書研究を導き、テレビ局が難色を示してもクリスマス物語から聖書を外しませんでした。その一方で、晩年には教会から距離を置き、自分を「世俗的ヒューマニスト」と呼んでもいます。熱心な信仰者だったのか。信仰を捨てた人だったのか。たぶん、その二択で人間を理解しようとすること自体が、少し乱暴なのです。
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スヌーピーを神学してみた。(1)聖書で「盗み食い」を正当化した犬

牧師という仕事をしていると、「聖書にこう書いてあります」という言葉の強さを、嫌というほど知ることになります。説教でも、教会のミーティングでも、何かを決めるときに聖書の言葉が示されると、それだけで話が決まったような空気になることがあります。何しろ、こちらは人間の意見ですが、向こうは神の言葉です。「私はそう思いません」とは言えても、「神様、それはどうかと思います」とは、なかなか言えません。ところが、です。聖書の言葉を口にしているからといって、その使い方まで正しいとは限りません。自分の考えを聖書に従わせるのではなく、自分に都合のよい聖句を探して、聖書の方を自分に従わせてしまうことがあるからです。そんな、かなり深刻な聖書解釈の問題を、世界一有名なビーグル犬が見事にやってのけた漫画があります。スヌーピーです。
説教

使徒5章17~42節 消スト増エマス 福音のストライサンド効果

インターネットには、隠そう、消そうとした情報が、かえって注目を集めて拡散する「ストライサンド効果」があります。かつてニコニコ動画などで「消すと増えます」と言われた現象です。使徒言行録5章でも、権力者たちは福音を押さえ込もうと使徒たちを投獄しました。しかし、主の天使が牢の戸を開き、「神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じます。翌朝、使徒たちは再び神殿で語っていました。大祭司は彼らを責めて言います。「見てみろ。お前たちはエルサレムを自分たちの教えで満たしてしまった。」原文の「イドゥー」は「見よ」「見てみろ」と注意を促す命令形に由来する言葉です。また、「満たした」は完了形で、福音が広まり、その結果が今も残っていることを表します。福音を消したかった人々自身が、「エルサレム中が福音で溢れている」と認めているのです。
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チ。原作11話を神学してみた。バデーニの変な髪型、実は「いばらの冠」だった?

原作11話で、いよいよバデーニが本格的に登場します。片目に傷を負い、いかにも癖が強そうで、しかも口も悪い。この人、本当に修道士なのか。いや、修道士なのにこんなに感じ悪くていいのか。そんなことを思いながら読んでいると、もう一つ目に飛び込んでくるものがあります。そうです。髪型です。頭の上の部分が丸く剃られ、周囲にだけ髪が残っている、あの独特すぎる髪型。現代日本の感覚からすると、かなりインパクトがあります。正直、初見だと「なぜその髪型にした?」と思う人もいるでしょう。
説教

使徒4章1~22節 どの道も登れば同じ富士の山というけれど

宗教は、富士山に登る道のようなもの。道は違っても頂上は同じ」と言われることがあります。しかし富士山の登山道が同じ頂上に着くのは、初めから同じ山の斜面にあるからです。諸宗教は、神、人間の問題、死、救いについて、実際には異なることを語っています。それらを全部同じだと言うのは、かえってそれぞれの信仰をまともに聞かないことにもなります。使徒言行録4章で、ペトロとヨハネは、生まれながら足の不自由な人が癒やされた出来事をきっかけに、最高法院で取り調べを受けます。以前は女中の言葉を恐れてイエスを三度否んだペトロが、今は聖霊に満たされ、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と大胆に語ります。この大胆さは、性格の強さではなく、失敗した自分が復活の主に赦され、立ち上がらせていただいた恵みから生まれました。イエス・キリストだけが救い主であるのは、クリスチャンが他の人より優れているからではありません。私たちの罪を負って十字架に死に、死に勝利して復活された方が、イエス・キリストのほかにおられないからです。「キリストだけ」という告白は、他者を見下す根拠ではなく、自分では救えなかった者の感謝とへりくだりの告白です。私たちは異なる信仰の人々の人格と信教の自由を尊重し、良い隣人として共に生きます。同時に、批判を恐れて福音の核心を薄めることもできません。福音は、人間がさまざまな道から神のもとへ登って行く話ではありません。登れず、迷い、倒れた私たちのところへ、神の御子が降りて来てくださった知らせです。イエス・キリストは人生を少し便利にする選択肢の一つではなく、罪と死から救う代わりのない救い主です。だから私たちは、誰をも侮辱せず、しかし恐れずに、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」と告白します。
時事問題

「弱者なら正義なのか――被害者ムーブを神学してみた」

セクハラやパワハラは軽んじられてよいものではありません。立場の強い者が、その権力や影響力を用いて、弱い立場の人を傷つけるなら、それは厳しく問われるべきです。聖書もまた、孤児、寡婦、寄留者、貧しい者を守るように何度も命じています。神は、弱い者の叫びを聞かれるお方です。しかし、ここで一つ注意しなければならないことがあります。聖書は、「弱い立場にいる人は、いつも正しい」とは教えていません。