キリスト者は共産主義あるいは共産党を支持してよいのか?(3)聖書神学的考察 原始教会とイエスの言葉を端緒として

カール・ブロッホ作「山上の垂訓」 教会と国家
カール・ブロッホ作「山上の垂訓」

題 この世のユートピアではなく、来るべき御国に生きる


Ⅰ.原始教会は「共産主義」だったのか?(使徒言行録2・4章)

まず、「原始キリスト教共産主義」と言われるときに、
よく取り上げられる聖書の場面を確認します。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」
(使徒言行録2:44–45)

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」
(使徒言行録4:32)

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り…その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」
(使徒言行録4:34–35 抜粋)

これだけ読むと、たしかに「ほら、みんなで財産をまとめて、貧しい人がいなくなってる。これは“共産主義”の理想に近いじゃないか」と言いたくなる人もいるかもしれません。でも、原始教会と共産主義の間には、決定的な違いが少なくとも三つあります。


① 強制ではなく、聖霊による“自発的な愛”

アナニアとサフィラの出来事の中で、ペトロはこう言います。

「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。」
(使徒言行録5:4)

「財産を必ず売りなさい」「必ずすべてを教会に出しなさい」という“ルール”があったわけではありません。「売るかどうか」「どれだけささげるか」は、一人ひとりの自由でした。
国家や政党の命令ではなく、**聖霊によって変えられた心から出てきた“愛の行動”**だったのです。


② 社会革命ではなく、「キリストのからだ」の中での分かち合い

ここで財産を分け合っているのは、まず「信じた人々の群れ」=教会の中です。「金持ち対貧乏人の階級闘争で、社会をひっくり返す!」という運動ではありません。イエスの十字架の愛に打たれた人たちが、兄弟姉妹としてお互いを大事にし、困っている仲間を支える愛の共同体の姿です。


③ 中心にあるのは「イエスは主でありメシア」という信仰

ペンテコステの説教の最後で、ペトロはこう宣言します。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。
あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、
神は主とし、またメシアとなさったのです。」
(使徒言行録2:36)

彼らの共同生活の中心にあるのは、「プロレタリア(労働者)の解放」「生産手段の国有化」ではありません。復活されたイエスを「主(しゅ)、救い主」として礼拝することが、すべての土台でした。ですから、原始教会を「共産主義の先取りだ」と読むのは、キリスト教を“この世の一つのイデオロギー”の中に押し込めてしまう読み方です。しかし同時に、ここには私たち現代の教会が忘れがちな「自分のものを自分だけのためにしない」「惜しみなく分け合う」キリストの愛の輝きも見えます。


Ⅱ.イエスは「この世の共産主義的ユートピア」を目指したのか?

では、イエスご自身はどうだったでしょうか。

イエスは、貧しい人・小さくされている人を、だれよりも深く憐れまれました。
でも同時に、“この地上から貧しさを完全にゼロにすること”を
ご自分のメインの使命とはされませんでした。


① 「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)

十字架にかけられる前、総督ピラトとの対話の中で、イエスはこう言われます。

「わたしの国は、この世には属していない。」
(ヨハネによる福音書18:36)

もしイエスが、ローマ帝国を倒して、新しい政治体制を作り、地上に“完璧な社会”を作ることを目指しておられたのなら、この言葉は出てこなかったはずです。イエスは、「神の国」=神が支配しておられる世界は、この世の政治体制や経済システムの“書き換え”と同じではない、と示しておられます。


② 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタイ26:11)

ベタニアで、ある女性がとても高価な香油をイエスの頭に注いだとき、弟子たちは怒りました。

「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
『なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。』」
(マタイによる福音書26:8–9)

とても“正しそうな”意見ですよね。「貧しい人のために!」という言葉は、いつの時代も強いスローガンになります。しかし、イエスはこう答えられました。

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、
わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
(マタイによる福音書26:11)

イエスは貧しい人を軽んじているわけではありません。旧約聖書には「弱い人を顧みよ」という命令があふれており、イエスはそれをだれよりも真剣に生きられた方です。でもここでイエスは、こう教えておられます。「この世から貧困を完全に消し去ること」よりも「キリストを礼拝し、その救いにあずかること」の方が、決定的に大事だということです。もし「貧困ゼロ」が救いの中心なら、「貧しい人々はいつもいる」という言葉は、大きな矛盾になってしまうからです。


③ 「人は、たとえ全世界を手に入れても…」(マタイ16:26)

イエスは、こんな言葉も語られました。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
(マタイによる福音書16:26)

ここでイエスが否定しているのは、政治的な成功、経済的な豊かさ、社会的な“勝ち組”が、人間の本当の救いではない、ということです。社会がどれだけ豊かになっても、罪の問題、死の問題、神との断絶の問題は、イエス・キリストの十字架と復活によってしか解決されません。


Ⅲ.イエスは「この世を捨てよ」とは言わず、「来世に希望を置いて、この世を生きよ」と招く

「じゃあ、来世(天国)のことだけ考えて、今の世界はどうでもいいの?」
と思うかもしれません。そうではありません。イエスは、来るべき御国に希望を置きながら、この地上で誠実に生きることを教えておられます。


① 「地上ではなく、天に富を積みなさい」(マタイ6:19–21)

「あなたがたは地上に富を積んではならない。…
富は、天に積みなさい。…
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書6:19–21 抜粋)

ここでイエスは、「地上の生活なんてどうでもいい」と言っているのではありません。けれども、「地上に富(たから)を積むな」と、ハッキリ言われます。“富”=自分の心のいちばん大事なものを、この世の経済・政治・成功に置くのではなく、天におられる父なる神と、その御国に置きなさい――そう招いておられるのです。


② 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33–34)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(マタイによる福音書6:33–34)

私たちは、「日本がどうなるか」「世界がどうなるか」「景気がどうなるか」に、とても心を奪われがちです。でもイエスは、「何よりもまず」神の国と神の義と言われます。優先順位がはっきりしています。神の国が来ること神の義(正しさ)が、私たちの心と関係を変えること、これが先で、その結果として、地上で必要なものは神が備えてくださるのです。


③ 「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)

パウロはこう言います。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
わたしたちは待っています。」
(フィリピの信徒への手紙3:20)

わたしたちは今、日本に住んでいます。でも、信仰によれば、本当の国籍(本籍地)は“天”です。だからクリスチャンは、この世のどんな国家や思想にも、自分の全存在を預けきってしまわず、「天の国の民」として、この世では“旅人”のように生きるそういうスタンスを与えられています。


Ⅳ.来るべき御国を待ち望みつつ、この世で何をするのか

では、来世に希望を置く者として、今の世界でどう生きればよいのでしょうか。


① 原始教会に学ぶ「自発的な愛の分かち合い」

改めて、原始教会の姿を思い出しましょう。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」
(使徒言行録4:32)

「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。…その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」
(使徒言行録4:34–35 抜粋)

ここにあるのは、革命による強制的な財産没収でも、法律で「こうしろ」と決められた平等でもありません。恵みを受けた者たちの、自発的な愛の分かち合いです。

私たちは、社会全体の制度を一気に「神の国」レベルにすることはできません。
でも、自分のまわりの人に目を向け、「自分のものを、自分のためだけには使わない」ことを始め、キリストの愛に動かされて、必要を覚える人に手を伸ばすことはできます。

それは共産主義ではなく、キリストの愛に根ざした“分かち合う教会”の姿です。

② この世のイデオロギーを「救い」として受け取らない

共産主義に限らず、いろいろな思想や主義主張が

「これこそ、地上の天国をつくる道だ」

と約束します。でもイエスは、こう言われました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
(ヨハネによる福音書16:33)

イエスは、「この世から苦しみが完全になくなる」とは約束されませんでした。しかし、ご自分が十字架と復活によってすでに世に勝ったと宣言されました。だから私たちは、どんな思想も、どんな政党も、どんな制度も、「完全な救い」を与えるものとしては受け取らないのです。完全な救いは、キリストの十字架による罪の赦し、復活のいのち、新しい天と地での、神との永遠の交わりそこにしかありません。

③ 「今の苦しみ」と「やがて現れる栄光」

パウロはこう語ります。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」
(ローマの信徒への手紙8:18)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
(コリントの信徒への手紙二4:18)

パウロは、「今の苦しみは軽い」とバカにしているわけではありません。
むしろ、苦しみは本当に重い、と知っています。

それでもなお、その苦しみより、はるかに大きく、重い、「永遠の栄光」が約束されているから、希望を失わずに歩めるのだ、と言っています。この希望こそが、「地上のユートピア」の夢(やがて壊れるもの)と死を超えて続く、神の約束を分ける、決定的な違いです。


Ⅴ.結び:この世に深く関わりつつ、この世に希望を置かない民として

最後に、内容を整理します。

  1. 原始教会は“共産主義”ではなく、「キリスト中心の分かち合いの共同体」でした。

    • 強制ではなく、聖霊に動かされた愛がありました。

    • 私たちも「自分のものを絶対視しない」生き方を学びたいのです。

  2. イエスは“この世で完結する救い”を目指さず、「わたしの国は、この世には属していない」と宣言されました。

    • 貧しい人を軽んじてはいません。

    • しかし「貧困ゼロ=救い」とは教えられませんでした。

    • 救いの中心は、罪の赦しと神との和解、永遠のいのちです。

  3. 「わたしたちの本国は天に」あります。(フィリピ3:20)

    • 地上の制度や政治に関わることを否定するわけではありません。

    • でも、どんな制度も「完全な救い」にはなりません。

    • 最終的な希望は、復活のキリストと、その御国にあります。

  4. だからこそ、この世を軽く扱うのではなく、むしろ誠実に、愛をもって生きることができます。

    • 自分の人生やお金のことが思いどおりにならなくても、

    • 国や社会が思ったように変わらなくても、

    • 「やがて現れる栄光」を見上げながら、今いる場所で忠実に仕えることができます。

来るべき御国(来世)にこそ希望を置きながら、この世から逃げるのではなく、この世に遣わされている者として生きる――それが、イエスが教えられた「神の国の民」の生き方であり、共産主義をふくむ、あらゆる“地上のイデオロギー”とは違う、キリスト者の特権であり、使命です。

どうか主が、どの思想にも心を奪われず、十字架と復活の主にこそ希望を置き、原始教会のように、愛をもって分かち合う共同体へと私たち一人ひとりと教会全体を、作り変えてくださいますように。

アーメン。

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