『チー牛』と呼ばれる者でも救われる
ふざけたような説教題に見えるかもしれないが実は大真面目である。今回、説教題に用いたのは「水牛」ならぬ、「チー牛」である。水牛神学を知っている層はチー牛をしらず、現代における被差別階層であるチー牛もまた多くは水牛神学はおろか、神学 も キリスト教 も知らないでいる。21世紀の日本のキリスト教会は現代社会の狭間に落ち込んだ真の弱者に救いの手を差し伸べるべきだろうが、本当の弱者であるチー牛たちに届く言葉を持たないばかりか、本当の弱者であるチー牛を認識もせず、チー牛と呼ばれる人たちがいることすら、その言葉すら認識されていないのである。これはゆゆしき事態だ。