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説教

使徒 3章全節 お金より大切なもの見つけた

生まれつき足の不自由だった一人の人が、主イエスの御名によって立ち上がる出来事が記されています。この人は毎日、「美しい門」と呼ばれる神殿の門のそばに置かれ、施しを求めていました。「美しい門」が正確にどの門であったかは断定できませんが、神殿の礼拝空間へ向かう大切な境界にあった門でした。彼は礼拝へ向かう人々を見ながら、自分は門のそばに置かれ、今日を生きるための施しを求めていたのです。
教会と国家

国旗は罰し、十字架は赦す 国旗損壊罪を神学してみた

2026年6月、自民党、日本維新の会、国民民主党、参政党は、国旗損壊罪を創設する法案を共同で衆議院に提出しました。法案では、対象となる国旗を「国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物」とし、著しく不快または嫌悪の情を催させる方法で、公然と損壊、除去、汚損した者に対し、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金を科すとされています。つまり、この法案が成立すれば、本物の日の丸を尿瓶に入れて尿に浸し、それを公然と見せるような行為は、国旗の「汚損」と評価され、処罰対象になる可能性が高いと考えられます。一方で、キリスト教世界には、これと非常に対照的な出来事があります。アメリカの写真家アンドレス・セラーノは、1987年に《Piss Christ》という作品を発表しました。これは、プラスチック製の磔刑像を尿に浸して撮影した写真作品です。多くのキリスト者から強い批判を受けた作品ですが、そのセラーノは2023年6月、バチカンで教皇フランシスコと面会した約200人の芸術家の一人でした。
説教

出エジプト記16章 森永のお菓子マンナを神学してみた。年十二回で学ぶモーセ五書 不思議な食べ物マナによる訓練

森永のお菓子「マンナ」は、出エジプト記の「マナ」に由来します。荒野を旅するイスラエルの民に、神が天から与えられた不思議な食べ物です。今日は出エジプト記16章全体を通して、マナが単なる奇跡の食物ではなく、救われた民を訓練する神の恵みであったことを学びます。
時事問題

死海の水を神学してみた。水を奪う国から水を分かち合う国へ

聖書の族長物語には、井戸をめぐる争いが何度も出てきます。アブラハムとアビメレクの間にも井戸をめぐる緊張がありました。イサクの時代にも、ゲラルの羊飼いたちと井戸をめぐって争いが起こりました。イサクはその井戸を「エセク」、つまり「争い」と名づけ、次の井戸を「シトナ」、つまり「敵意」と名づけました。そして、ようやく争われない井戸を得たとき、「主が今や、我々の場所を広げてくださった」と言い、その井戸を「レホボト」と呼びました。古代の族長たちにとって、水は単なる生活資源ではありませんでした。水は命であり、家畜であり、土地であり、未来でした。水がなければ、家族も群れも生きられません。だから井戸は、時に戦争の理由になりました。
サブカルを神学してみた

保護中: チ。原作10話を神学してみた。バデーニの目はなぜ焼かれたのか? 

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説教

使徒2章41~47節 中国天津に天津飯は存在しない

「天津飯」という料理があります。ところが、この天津飯、名前からするといかにも中国の天津市の名物料理のようですが、実際には中国天津の伝統料理ではありません。日本で生まれた、日本式中華料理です。つまり、私たちは「これは中華料理だ」と思って食べている。しかし、本場の中国の人から見ると、「え、それ何ですか?」となるかもしれない。もちろん、天津飯が悪いわけではありません。おいしい。立派な日本の食文化です。しかし問題は、「これは本場そのものだ」と思い込むことです。今日の問いはそこです。私たちのキリスト教は、天津飯になっていないでしょうか。
サブカルを神学してみた

チ。原作9話を神学してみた。私審判と最後の審判。天国行きの判定はいつ出るのか?

原作9話、第二集92ページあたりで「私審判」という言葉が出てきます。この「私審判」という言葉、おそらく多くの日本人にとっては聞き慣れない言葉だと思います。私もプロテスタントの牧師ですから、普段の説教や教会生活の中で「私審判」という言葉を多用することはありません。これはどちらかと言えば、カトリック神学の用語です。しかし、この言葉が『チ。地球の運動について』の中で出てくるのは、なかなか興味深いのです。
教会と国家

100年間人口調査すらできない国 レバノン

イスラエルがレバノン南部で作戦を続けている、と聞くと、多くの日本人は「またイスラエルが隣国レバノンに攻め込んでいるのか」と受け止めるかもしれません。しかし、レバノンは、日本人が何となく想像しているような「普通の国」ではありません。レバノンは、最初から宗教的にも政治的にも、非常に危ういバランスの上につくられた人工的な国家でした。レバノンでは、1932年を最後に、宗派別の公式な国勢調査が行われていません。、ほぼ一世紀にわたって「国民がどの宗派に何人いるのか」を数えることすら政治的に危険すぎる国なのです。
教会と国家

自由で開かれたインド太平洋を神学してみた

「海は誰のものか」。この問いは、古いようでいて、実はきわめて現代的な問いです。今日、日本を含む多くの国々は「自由で開かれたインド太平洋」という言葉を用いています。けれども、その根底にある問いは意外なほど単純です。海は、力ある国が囲い込んでよいものなのか。それとも、国々の共有の通路として開かれているべきものなのか。この問いに、近代の初めに大きな答えを出した人物が、フーゴー・グロティウスです。日本では「国際法の父」と呼ばれることが多い人物です。彼は単なる法律家ではありません。オランダの人文主義者であり、法学者であり、外交官であり、そして神学者でもありました。しかも彼はプロテスタント教徒でした。その彼が、カトリック帝国による海の独占を批判し、「海は自由である」と主張したのです。
説教

使徒 2章22~42節 十字架につけられた人が救い主?!

皆さん、「救い主」と聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。強い人。負けない人。悪を倒す人。最後には大逆転する人。映画でも漫画でも、ヒーローというのはだいたいそうです。倒れそうになっても、最後は立ち上がる。敵を打ち破る。拍手喝采を浴びる。ところが、聖書が語る救い主はどうでしょうか。十字架につけられた人です。これは当時の人々にとって、信じがたいことでした。十字架刑は、ただ死ぬ刑罰ではありません。ローマ帝国が見せしめとして行う、最も恥ずべき処刑でした。「この者は負けた」「この者に従う者も同じ目に遭うぞ」と世にさらす刑罰です。ですから、「十字架につけられた人が救い主です」と言うのは、普通に考えれば無茶な話です。今日の説教題の通りです。