コリントは今も南ギリシャの中心都市です。アテネが政治上の都、テッサロニキが工業都市、とすれば、コリントは商都であり、大阪にあたるような町でした。私たちは聖書にならって聖書的な教会を目指しますが、聖書に出てくるコリントの教会はどれほど理想的な教会だったのでしょう。コリントの教会には分裂があり、性的不品行があり、教会員どうして裁判に訴える者もいました。実に今日の説教題は「教会につまづいたあなたへ」と穏当なものにしましたが、パウロの言葉を借りれば「キリストバラバラ殺人事件」とすべき有様でありました。コリントの教会員の行状からはキリスト者の麗しさは全く感じられず、キリストをバラバラにしていたので、求道者もかえって離れていくような状態でした。私は人が教会につまづくことがある理由のひとつに教会が罪びとの集まりであるという、ある種の「正しい幻滅」ができていないことがあると思うです。しかし、パウロはいうのです。そのような惨状であってもなお教会は「神の(所有である)」教会であり、神はコリントの教会をキリストの名折れだといわず、キリストのものであると断言するのです。私たちが教会に仕える理由もまた教会という人の集まりそのものが素晴らしいからではなく、キリストが名を置き、キリストがこの我孫子教会を愛されたからなのです。
サムネイルは2019年に筆者がギリシャへ研修旅行に行ったときに撮影したコリント地峡
現在は地峡が削岩され運河が作られている。
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