教会に躓いたあなたへ(2)神の御心に導かれまくりすぎる教会

教会に躓いたあなたへ

教会に躓いたあなたへ(2)神の御心に導かれまくりすぎる教会

さて、何年も教会へ行けていないクリスチャンのために「教会に躓いたあなたへ」を連載すると言いながら、2回目にして結論めいたことを書きます。

教会を躓いて離れた人の一番躓いた理由は、「牧師、司祭、長老、その他教会の有力者と意見が合わず、教会の有力者と同じ意見に合わせれなかったので去るより仕方なかった…。」これが一番多いのです。

で、それだけならば離れた者の我がままなのか、残ったものの横暴なのかは判断しかねるのですが、その際、牧師、司祭、長老、その他教会の有力者が、「神様からシメサレマシタ、ミチビカレマシタ」等と発言することに問題を感じています。少なくとも私は、個人の確信として神様から示されたこと、導かれたんだろうなと思うことがあっても、それを、教会の意見集約のために「シメサレマシタ」、「ミチビカレマシタ」とは言わないことにしています。

このシメサレマシタ、ミチビカレマシタという言葉は大変恐ろしい言葉なのです。例えば、ある教会で、Aという意見とBという意見があった時に、牧師が「聖書のある言葉が与えられ、Aという方向に進むように神様からシメサレマシタ」と発言するということは、牧師と同じ意見を取らずに、「Bに賛成」した人にとっては、Aの意見に反対するという意味にとどまらず、言外に「神の意向に逆らう、神敵!、仏敵!、朝敵!」のようなニュアンスを伴うことになりはしないでしょうか?同調圧力が強く、周りに空気を読むように強いる日本社会であればなおのこと。教会の有力者の意見についていけない人は教会を離れざるを得なくなるのです。虎の威を借る狐よろしく、神の威を借るボクシです。

ある聖句を取り出し、ミチビカレマシタ、シメサレマシタと言う前に「こうあってほしい」という本音・本心というのが個々人にあるのではありませんか?そして、そんな本心、本音を反映させるために、無意識に自分の意見に近い聖書の言葉を選び取ってその中に本来存在しない意味をねじ込んではいないでしょうか?そして、無理やりねじ込んだ意味を読み取って、「これこそ神のミココロだ、ミチビキだ、シメサレタ」と我田引水するキリスト者がいかに多いことが…(それは、あなたが躓いた教会がそうであったかもしれませんし、教会を離れてしまったあなた自身がそうだったのかもしれませんし、あるいは両方がそうだったのかもしれません。)御心とは歴史を支配される神のゆるぎないご意思です。そこに自分の意見をねじ込んで自分の意見をさも神のご意思と僭称することがいかに罪深いことか…

使徒言行録の21章を見ると、使徒パウロと預言者アガボと聖書記者ルカの間でパウロのエルサレム行きに関して意見の対立が見られます。それぞれが神から見せられたビジョンが違い、互いに自身の見解こそ、御心であるといって、物別れに終わります。結果は3人とも神のご計画の一部分だけを見せられており、その全体像を把握できていなかったのです。

使徒と預言者と聖書記者ですら、その時点では神のご計画の奥深さのすべてを見ることができず、御心に関して一致できなかったのです。はてさて、あなたの教会で意見の対立があったとき、あなたの意見は御心だと断言できますか、また逆にあなたと反対の意見を主張する人は絶対御心でないと断言できるでしょうか?

歴史を導かれる神だから、既に起こった過去のことまで、神の御心ではなかった等というつもりはありませんし、神の許しのゆえに過去の出来事が積み重なって現在があるのですから、それは御心だったのでしょう。しかし、未来に関しては聖書が指し示す明確に罪とされている行為でないならば、私たちは軽々に「これが御心だ」「シメサレマシタ」「ミチビカレマシタ」などと言ってはいけないのではないでしょうか、少なくとも御心を求めて、私たちに与えられたありとあらゆる賜物(神学的知識、知性、経済力、体力、霊性etc)を最大限用いて、一番神様が喜ばれるであろうことを選び取っていく営為のその先に御心はあるのだと私は思います。

※サムネイルはルイ・シェロン作「アガボの預言」です。ノートルダム大聖堂にあります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました