教会に躓いたあなたへ(4)政治サロン化した教会

教会に躓いたあなたへ

教会に躓いたあなたへ(4)政治サロン化した教会

毎年、2月11日の前後になると、一部の教会が政治サロン化し政治声明を発表することがあります。

確かに、長い教会史においては、皇帝礼拝を強要したローマ帝国に不服従を貫く必要があったり、国家が教会に不当な介入してくることに防ぐために、教会が国家(政治)に目を光らせ、時には「否」と言わねばならいことがあること、完全に否定は致しません。

数年前、ある特定の政治信条を持つことこそがキリスト教信仰と合致するものだと言わんばかりに、教会やキリスト教団体が、政治的な声明を表明するのが流行った時期がありました。私と私がかつて牧会していた教会では、政治サロン化した教会の中で苦しむ「ある人々」を救いたいがために「政治的声明を出さない宣言」というのを出したことがあります。(「ある人々」については後述します)私自身は浅学菲才なものですし、当時私が牧会していた教会は地方の単立の20人ほどの教会でしたが不思議なことにそれが結果として、教会やキリスト教団体が政治的声明を出す潮流に一定程度冷や水を浴びせるような格好になりました。他教会のクリスチャンからも賛同くださる方もいて、かなり大きな反響を呼び、クリスチャン新聞で取り上げられて特集して頂きました。また、その記事がまたとある神学校の実践神学の講義の中で配布されたりしたことがありました。さらにはそうした、政治サロン化した教会で躓いた方から当時私が牧会していた教会への転会を希望されるかたもいらっしゃいました。

人権問題や犯罪であるならば、10人いれば、10人ともが「悪いことはやめるべきである」と判断することができて一致できるでしょう。しかし、もともと政見、政治信条等というのは優先順位の問題であり、人によって見解が違うのが当然であり、善悪で一刀両断できる問題ではありません。そんな問題に教会が政治信条で統一見解を出そうとすること自体、無理があるように私は思います。もともと教会は、性別も国籍も、所得も、性格も、政治信条もなにもかもバラバラの人たちがただキリストへの信仰によってつなぎ合わされたあつまりなのですから・・・。

「ある人々」とは

「キリスト者として●●のような政治的主張をすることにしました」と宣言することは前々回でお話しした通り、「●●という政治的主張をするように神から導かれました」ということに繋がり、裏をかえせば反対の政治信条を持つ人たちを教会内で針の筵(むしろ)に追いやってしまうことになりかねません。私と私の牧会していた教会が数年前、「政治的声明を出さない宣言」をだしたのは、政治的に対立する人さえも、キリストが愛した存在であり、キリストの愛を伝えるべき存在でありそういうひとたちを捨ておくことができなかったからです。

今、私が牧会している教会では敢えて、この声明を出すつもりはありません。もちろん、会衆制の教会ですから、教会の教会員が主導して、同じような声明を出そうとされるのであれば、それをとめることもしません。

しかし、私個人としてはこの声明出したときと同じスタンスで牧会と宣教にあたろうと思っています。

 

以下、引用

 

政治的声明を出さない宣言

昨今、日本の主要なキリスト教界、諸団体においては、政治的な声明が発せられることがままあるが、我々の教会においては当該政治的課題が聖書と歴史的・正統的な教理に明白に反しない限りにおいては将来にわたって教会でかような声明を発しないことをここに宣言する。
原発反対、その主張は正しいかもしれない。しかし、電力会社とその関連会社につとめる者にとっても我々の教会は隣人でありたいのだ。
安保法制反対、その主張は正しいかもしれない。しかし、自衛官として生きるキリスト者、基地関連施設で働く者にとっても我々の教会は隣人でありたいのだ。
共謀罪反対、その主張は正しいかもしれない。しかし、暴力団をはじめとする組織犯罪に涙を飲んだ被害者たちに対しても我々の教会は隣人でありたいのだ。
「キリスト者の政見が絶対に正しい」とは「絶対に言えない」ことを我々は告白する。それは政治的志向の左右の別なくキリスト教を信じる信仰者として告白せざるを得ない。
かつてキリストの十二人の弟子たちの中に熱心党員シモンと取税人マタイがいた。もし、彼らにローマ帝国についての政見を尋ねれば前者は反ローマ、後者は親ローマと答えたであろう。十二使徒の間でさえ、政治的見解は一致をみず、ただ、キリストへの信仰によってのみ立場を超えてつなぎ合わされていたのである。
最後に我々の教会はまた、上述の政治的な声明を発するキリスト者たちをも排除せず、隣人として愛することをここに宣言するものである。

 

リンク先は

クリスチャン新聞 2018年1月7日14日合併号で同宣言が特集された記事

※政治的声明を教会が軽々に発出することの神学上の問題点を学究的に述べています。

サムネイルはヘンドリック・テル・ブルッヘン画「聖マタイの召喚」の一部

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