Ⅰコリント5章1~8節 「おいしいパンの作り方」

説教

Ⅰコリント5章1~8節 「おいしいパンの作り方」

聖書の中で「パン種」イーストは、良い物が何倍にも膨張するという良い文脈で使われるときと、腐敗が拡大していくという悪い文脈で使われるときと両方あり、ここではパン種を悪いことが増え広がるという意味で語られていますので注意する必要があります。

1節の「みだらな行い」というの「ポルニア」というギリシャ語でポルノの語源になった言葉です。聖書は、キリスト教は、飲酒や喫煙など細かいことを問題にしません。しかし、性の問題については厳格です。とはいえ、禁欲主義でもないのです。夫婦間の性生活に関しては、旧約聖書では「泉」や「井戸」等なくてはならないものに例えられて、読んでいるこちらの方が恥ずかしくなるような表現もいくつも出てきます。性を肯定的に、大事に捉えているからこそ、性の本来の目的外使用は人格や、神との関係を決定的に破壊しかねないために、その取扱が厳格なのです。

教会の陥りやすい罠は、愛とか寛容等といった美名のものとにこうした厳格に取扱うべき問題に対して無関心でいてしまうことです。コリント教会はこの不品行を放置することを我々は寛容な教会だといって「高ぶって」(5:2)いました。具体的には父親の後妻、継母、あるいは妾を自分のものとした者がいたようで、これは旧約聖書レビ記でも禁じられており、ローマ法でも、現在の日本の民法でも当然に認められていないことです。それをコリントの教会は、愛や寛容の名のもとに受容し、我々は愛に豊かだ、寛容だと嘯いていた者がいたというのが実態なのでしょう。パウロは迅速に当該教会員を除名せよと主張します。

ただ、その交わりを立て、除名せよというところだけを聞くと、一罰百戒のような印象をあたえますが、パウロは、そんな除名対象の教会員に対してさえ、ただの可罰対象とみるのでなく、救霊を願い、キリストと再結合されることを願っていることが示唆されます。

また、対象者を教会の交わりから除外することを、イスラエルの正月14~21日の種なしパンの祭りにたとえています。さらには、問題のある人間の排除が主目的ではなくて、私たちが既に過越しの祭り用の、神の前に捧げられるべき種なしパンだと宣言しています。そして、そのためにキリストが「過越の子羊」(パスハ)として屠られたといいます。(※パスハはそのまま、過越祭、イースターの意味で、日本語の「の子羊」は補足です。) この章の始まりは叱責でしたが、叱責のままで終わるのではなくて、ともにイエス様をお祝いしようというメッセージに転換されるのです。

最後に適用として、私たちは除名に値しない些細なことで教会の仲間である教会員、兄弟姉妹をを心の中で「除名」してしまっていないでしょうか?また、私たちが除酵祭に捧げられる純粋で真実なパンだと持ち上げられると、私たちは「いえいえ、私たちはそんな立派なものではありません」といって後ずさりしそうになってしまいますが、純粋という語のギリシャ語の元の意味が(太陽の光と熱に晒して試された)という意味であり、真実という語のギリシャ語の元の意味が(隠されてない、ありのままの)という意味だと知るときに、私たち自身が矛盾をかかえ、不実なものであることを正直に神の前に告白することなら、そう、イメージとして本を開いて天日干しすると、虫やカビから守られるように、私たちも、個人の努力では純粋にも真実にも到達できないでしょうけれども、神様の前に正直にありのままをさらけ出すことであれば、できる、そう安心させられるのです。

 

※サムネイルはフランシスコ・ゴヤ作「果物、瓶、パンのある静物」

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