Ⅰコリント5章9~13節 「今明かされる!第0コリント書の存在」

説教

昨今のウクライナ情勢を鑑みて

昨今のウクライナ情勢を鑑みて、まったく礼拝の中で触れないのもおかしいのですの少しふれておきます。 高校で世界史を学ばれた方は1054年に東方教会(ギリシャ正教会やロシア正教会等)と西方教会(ローマカトリック、またプロテスタントもその500年後カトリックからさらに分離する)が分裂したと習ったはずですが、1054年当時、まさか西方教会と東方教会の仲たがいがその後、約千年間もの分断になるとは誰も考えていませんでした。これ以前にもローマ帝国内の五本山のうち、ローマ教会が突出し、残りの4教会が諫める、苦言を呈する、数年間交流を見合わせるというようなことが何回もありました。そして、教会はキリストのからだという統一意識を皆持ち合わせていたのです。ところが、1054年の些細な分裂は、その後1000年近くもの間の分断を引き起こしてしまいました。

西方教会は国家を治める国王(皇帝)が上か教会を治める教皇が上かでカノッサの屈辱のような事件が起こりましたが、東方教会は教会の守護者は東ローマ皇帝で教えは同じですが皆国教会制度を持っています。ブルガリアにはブルガリア正教会、ギリシャにはギリシャ正教会、グルジアにはグルジア正教会といった具合です。そして、ロシアにはロシア正教会があるのですが、ウクライナにある正教会をウクライナ正教会としてロシアから分離独立を認めるかということが世界中の東方正教会で大問題になっています。文字通りの千年の都であり、かつての東ローマ帝国の首都に位置し、世界中の東方正教会から格の上で筆頭とされているコンスタンティノープル総主教庁はウクライナ正教会の独立を認め、信者数が最多でその実力、影響力においては東方正教会の中で最大であるロシア正教を束ねるモスクワ総主教庁ではウクライナ正教会の独立を認めず、他の正教会も、どちらの立場を支持するかで、東方正教会内で断交が起きています。

2018年から続くこの断交はかつての1054年の大シスマ(大分裂)のように振り返ってみれば、緩やかに連帯してきた東方正教会世界の大分裂につながるかもしれません。今回のウクライナとロシアの間の紛争はキリスト教的見方をすればそのような出来事が下敷きにあり、実は歴史的な大転換時に私たちは生きているのかもしれません。ただ、みなさん、キリスト教が問題なのではありません。往々にして、政治問題、国際問題、経済問題が引き金になってその指導者が宗教を、特にキリスト教を利用するのです。特に東方正教会は先ほど申しましたように国単位で正教会がまとまっているので、政教一致になりやすいのです。

私たちバプテストはそのような歴史を鑑み、キリスト教の諸教派の中でも政教分離を声高に叫び、国家による宗教への干渉を最も嫌う群れのひとつであります。

Ⅰコリント5章9~13節 「今明かされる!第0福音書の存在」

映画やアニメなどの作品は人気が出てくると続編「2」「3」が作られシリーズ化され、さらには第一作の前日譚を描いた「ゼロ」が作られたりします。が、「第1、第2コリント書」の前にも既に「第0コリント書」が存在していたようです。第1コリント5章9節で「以前書いた手紙」の存在に触れ、パウロはこの手紙の存在をほのめかしています。ただおそらく、個人的な叱責が多かったからでしょう。聖書として残ることなく散逸してしまいました。

「一教会に一牧師」などというのはこの200年ほどの慣習であり、初代教会は「一教会に一聖書」も充足されていない時代すらあったのです。その時代、イエス様の直弟子にあたる使徒からの手紙は大事に「写経」されて、礼拝時に、朗読されていたのです。その中で、特にこれは聖書として取り扱われ、写経され、地中海沿岸の初代教会に回し読みされてきたのが現在の聖典化された聖書です。

おそらく、第0コリント書はあまり写経もされず、また礼拝の中で読まれることもなかったのでしょう。そこに神様の配慮を感じます。

5章後半の「交遊禁止対象者リスト」は象徴的なもので、内面が神の力によって聖化されなければこのリストを外形的に取り繕う偽善者をあらたに生むだけになります。10節の「交際する(な)」という単語は「完全に混ぜ合わせる(な)」という意味の単語ですから、原意に近づけるなら「味噌も糞も一緒にする(な)」になります。

パウロは言います「内部を裁け、外部を裁くな、外部の裁きは神様に委ねよ」と。説教者として大胆に解釈することが許されるなら、心理学でいうところの「認知的不協和」の解消のために、外の者を貶め、外の者を恨み、外の者を呪うことによって自分の抱える矛盾を解消しようとするな、その矛盾をそっくりそのまま神に委ねよ。ということになるかと思います。

一例をあげればイソップ童話の酸っぱい葡萄があげられます。あるキツネがおいしそうなブドウが気になっているのを見つけ食べようとジャンプしたり、後ろ足で立ったりするのですが、どうやっても葡萄に届きません。最後には、キツネは憤慨して「だれが、こんなまずい葡萄をたべてやるか?」と毒づいて葡萄の木から去っていきます。

ブドウはまずくなったのでしょうか?これは「葡萄を食べたい自分」という認識と「おいしそうなブドウ」という認識があるにもかかわらず、「ブドウが得れない」という結論が出たとき、そこに矛盾を感じます。これを認知的不協和といいます。この時、「葡萄を食べたいけど食べれない自分」と自分のふがいなさを率直に認めればよいのですが、それができないので、無意識に問題を外部にもっていきます。「ブドウはまずいに違いない」と考え、「ブドウが食べれない」のではなくて、「ブドウはまずいので食べる価値がもともとなかったのだ」と思うなおすことで、心の平衡を保とうとします。果たしてブドウはまずくなったのでしょうか?この童話では蔑まれたのは、たまたま葡萄でしたが、この認知的不協和が外部の人に向かう時があります。矛盾を解消するために自己認識を変えるのではなく、他者に責任を転嫁しようと無意識に人はしてしまうことがあります。これを聖書は罪の性質と呼んでいますが、国単位でこのようなことが起これば戦争になってしまいます。

どのようにして矛盾を解消すればよいのでしょうか、そもそもクリスチャンがその信仰生活を歩んでいく上で最大の矛盾とはなんでしょうか?そもそも私たちが救われたこと自体大いなる矛盾なのです(ロマ5:6~8)。神は認知的不協和を私には起こさなかった。「イエスは尊い神のひとりご」「わたしは救われる価値のない罪人」しかし、神は私をイエスキリストの血でもって贖った。この矛盾は、このギャップはいったい何によって埋め合わせれたのでしょう。そこには理屈はありません。私たちへの愛がそのギャップを、その矛盾を埋め合わせ、認知的不協和を克服されたのです。

その事実を見つめ続ける限り、私たちはコリントの教会にあったような外部のものを裁くという誘惑から遠ざかることができるのです。

サムネイルはハンス・ボルバイン作「コリントの遊女ライス」

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