マタイ28章1~10節「ハッピーイースター」

Aleksandr 説教
アレクサンドルイワノフ作

マタイ28章1~10節「ハッピーイースター」

イースターの朝です。そもそも、私たちが毎日曜日に礼拝するのはこの曜日にキリストが復活されたからなので、毎週がイースター礼拝といっても過言ではありません。本日のテキストは1節に「マグダラのマリアともう一人のマリア」が墓を見に行ったとあります。この婦人たちは27章55~56節にも、27章61節にも登場しており、男性の弟子たちと違って、イエスの死に目に立ち合い、墓に納める時も目撃しています。その上で、日曜の朝も墓の様子を身に行ったのです。特に墓を納めるところに対峙して座り込んでいたところは、原点では中受動態で、新国際訳NIVでは過去進行形で、マルコ福音書の並行箇所では日本語で墓を見つめていたと書かれています。日曜日の朝に遺体の処理をするために場所を確認するだけであれば、墓の所有者であるアリマタヤのヨセフが納棺した時点で立ち去ってもよいところですが、この女性信徒たちはそれほどまでにイエスの遺体に執着していました。

誤解をおそれずに言えば、男性信徒の多くはイエス様の理念、御業、スローガンに惚れ込んでいたのに対して、女性信徒の多くはこの地上を生きたイエス様の(身体)フィジカルを慕っていたのです。

私もスマホの壁紙は子どもの写真にしています。引かれるかもしれませんが、かわいくてその写真にキスしたくなるくらいです。何日も離れていて久しぶりに会う日は我が子の体をギュッっと抱きしめます。愛するものに物理的に近づこうとし、物理的に触れようとするそこには理屈はありません。

女性信徒たちが御傍にいたいと考えたことに理屈はなかったはずです。

4節の番兵については27章62~66節と28章11~15節に未信者の視点が端的にのべられており、むしろ番兵が「寝ている間に弟子たちが遺体を盗んでいった」という証言こそが、キリストが復活したということを雄弁に語っています。番兵が寝ていたのであれば、自白すればお咎めがあるのでそれを隠すはずです。しかし、番兵自ら、寝ていたことを喧伝するということは、番兵は寝ておらず、遺体は盗まれず、にもかかわらず、遺体がなくなってしまったことを、遺体が盗まれたことにしなければならない事象が生じたことの裏返しになります。つまり、イエス・キリストが復活したことを信者以上に真実性をもって語ってしまっているのです。

さて、天使は精神論を語るでもなく、婦人に主イエスの遺体が存在しないことをもって、キリストの体の復活を伝えます。また、再開場所を指定します。つまりは、物体がある空間を占有すること、つまりキリストが体をもって復活したことをのべ伝えよと言います。婦人は走ってその福音を伝えにいき、道中、主イエスがあらわれ、肉体を通して発声され「おはよう」と挨拶します。そして、婦人たちはその肉声を聞いてイエス様だと気づき、御足に抱きつきました。

一連の流れは、イエスが間違いなく肉体を伴って復活したということを間違いなく伝えようとしています。

そうです。私たちクリスチャンの希望はたとえ今死んでも魂が御元にいって安らぎを得ることはもちろんのこと、再臨の後、肉体を伴って復活させられ、新天新地で永遠に生きることなのです。イエス・キリストが肉体を伴って復活したというのはそのプロトタイプとしての復活であり、だからこそ、希望があり、だからこその カ ラ ダ を伴った復活なのです。

どうして、そこまで生にこだわるのか、復活にこだわるのか?

いえ、逆説的になりますが、私たちの根本問題が死、肉体の死だからです。復活にこだわるというよりは死はどうやったってうけいれがたいものだからです。

ある有名な哲学者は「死は不条理だ」と言いましたが、私たち人間にとっては死は絶対に絶対に受け入れがたいことです。

日本には本葬の前に個人を忍ぶ「おつや」という風習があり、そのもとになった風習に「もがり」というものがあります。これは、死とはやはり人間に受け入れがたい物であり、できることなら愛する人に生き返ってほしいと願うもので、すぐに土葬したり、火葬したりせずに、遺体を納棺後しばらく安置して遺族がしばらく、その遺体の近くにつきっきりになるというものです。高貴な人ほどその期間はながく、昭和天皇の殯(もがり)は50日にもおよんだそうです。そして、冷酷にも遺体の死後変化を通じて受け入れがたい死を渋々に受け入れさせられていることを思います。

復活の信仰がまだなかった時に、遺体に香油を塗ろうと墓の前に来た婦人たちの心情に通じるものがあります。

聖書は言います。人はもともと死ぬべき存在ではなかったと、神への反逆、罪が人類に及んだ結果、人は死すべき存在に堕したとと、主イエスキリストはこの問題からの解放の為に降誕し、全人類の身代わりに死なれたが、彼自身に罪がなかったので復活し死に勝利したと、それを信じる者にはキリストと同様に永遠の命と体の復活が与えられると。

しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 

  使徒言行録 2章24節

そう、われらの神は、キリストを生かし、彼を信じるクリスチャンを生かすことにこだわってくださったのです。

※サムネイルはアレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフ作「復活後にマグダラのマリアの前に現れたキリスト」

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