第一コリント15章12~19節「『ナラ』の福音」

説教
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『ナラ』の福音

コリントの教会の一部の人たちは、イエス・キリストは肉体を伴って復活をしたことを信じてはいるが、クリスチャンは魂が天国にいけるけれども肉体を伴っては復活はしないという信仰を持っている人がいました。これはギリシャ人に「霊魂不滅」という考え方があったからですが、日本人の死生観にも通じるところがあります。そこで、パウロはもし、死者の復活がない「ナラ」、キリストの復活もなかったはずだ。といい、その後も「もし~でないナラ、~だ」と背理法を展開していきます。しかし、この背理法は循環論法に陥っているようにみえますし、前提となる死者の復活は証明されていません。パウロはここで復活の証明をしたいわけではないのです。13節の復活は受動態であり、復活させるのは神なのです。私たちクリスチャンの復活にどなたがこだわりをもち、どなたが執念をもやしているかということを見たときに、私たちの信仰は襟を正させられるような思いになります。人の復活が魂だけプカプカとあの世で浮いているような状態では、神さまは満足されないのです。どうしても、リアルなボディーを伴った状態で復活させたい。生き返らせたいという神様の側のこだわり、神様の側の熱情をパウロは語っています。そして、このこだわり、執念、熱情を受けたときに、私たちもまた、愛の応答として、サムエル記の巻末(サムエル下24章18~25節)でダビデがいけにえを捧げた心情にいたることもまた、場合よってはあるのです。

※ダビデは礼拝のための祭壇を築くとき、「王様から祭壇建立の経費を頂くなんて滅相もない」と家臣に断られるのですが、ダビデも「神様に礼拝する以上、タダで礼拝するなんて自分の心情的に許せない、頼むから自腹を切って礼拝をささげさせてくれ」といって、祭壇を築く際、その、場所を提供してくれた家臣に十二分の代金を支払いました。これもまた神様の憐みの大きさに心打たれたの人間の側の愛の応答に関するこだわりといえましょう。

必ず私たちを復活させるという神の執念、神のこだわりに感謝しましょう。

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