ヘブライ書12章1~3節「信仰のご先祖様に見守られて歩む」
本日の礼拝への招きの言葉ヘブライ書12章1節は新改訳で掲載しました。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
「雲のように」と訳されているギリシャ語はネフォスです。英語でもクラウド雲は大群、渋滞している状態などと訳することができますが、著者は信仰の先達たちが雲のように周囲にいるというのです。誤解を畏れずに言えば
- 背後霊のように「まつわりつ」き、見守ってくれている「信仰の先達」と
- 私たちの周りに「まつわりつく」「罪」と
を、対比し前者を意識し、奮起を促しています。 たとえていうなら、駅伝の走者がタスキを次の走者に渡して、祈るような気持ちで固唾をのんで見守るように、信仰の先達たちが信仰を継承された私たちの快走ぶりを見守っているというのです。
ヘブライ書の著者は読者が旧約聖書に精通している前提で前章まででアブラハム、ヤコブ、モーセ等々信仰の勇者ともいえる先達を列挙し、その勇姿の全ては、その苦しい中での歯を食いしばるようにして守った信仰の全ては最終走者であるあなたにタスキを引き継ぐためだったのだというのです。
24節ではその代表例として「アベルの血」が出てきます。彼はアダムとエバの息子で、人類史上最初の死者であり、最初の殺人事件の被害者であり、彼自身はなんの悪いこともしていないのに殺された、人が作った理不尽な社会の最初の犠牲者でもあります。
アベルとはアダムとエバの子なのですが、実の兄弟であるカインに殺されます。親であるアダムとエバはその怒りと悲しみをどこへ持っていけばよかったのでしょう?自分の息子を殺した人間なんて絶対に赦せません。しかし、加害者もまた、自分の息子なのです。親としてアベルの為に加害者の極刑を願いたい気持ちと、カインのために加害者に寛大なる処分を求めたい気持ちが錯綜し、やるせなさが募ったことでしょう。
死は悔しく、悲しく、理不尽です。でも、誤解しないでください。神を逆恨みしないでください。死は神が創造したものではありません。死は人類が自らを自らの神としたいという傲慢の故に自ら招き入れたものです。理不尽も不条理もまた神の創造によるのではありません。これもまた人が招き入れたものです。非業の死を遂げた人を人々は賞賛し記憶します。しかし、残酷なことを言えば、その記憶した人もまた死ぬのです。牧師という仕事柄、人の葬儀に立ち会うことままあるのですが、壮年期に若くして亡くなれば葬儀への参列者はものすごく多くなります。当人より年下の人も年上の人も彼の死を悼むからです。しかし、100歳を超え長寿を全うしたらどうでしょうか?参列者は当人よりも年下の人ばかり、また、当人の若いころの活躍を知る人はなく、参列者の数も限られます。そうです、本来なら記憶されるべき理不尽な非業の死さえも時の流れが記憶を奪っていくのです。
しかし、神は人の死はご自分の働きに起因することなく、人に因ることなのに、全ての理不尽な死を決して忘れることなくその人類史の一番最初の非業の死であるアベルの死から最後の非業の死まで覚えているとおっしゃるのです。(マタイ23:35)(歴下24:20~22)
これは感謝なことではないでしょうか?
そして、なにより、人類史上最悪の理不尽は全く罪のない神の独り子イエス・キリストが極悪人が処せられる十字架にかかったことです。しかし、主はその出来事を通して信じる全ての人の死と理不尽とを解決しに来てくださったのです。
ご先祖様に見守らていると私たちが意識してこれから先も歩みたいと願うのであれば、尚の事、信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめ(ヘブライ12章2節)続けようではありませんか?
※今回機材の不良で動画がコマ送りのようにカクついています。ご了承ください。
※サムネイルはジャン・フーケ作『ムランの聖母子』のうち、エティエンヌ・シュヴァリエと守護聖人ステファノが描かれた左翼
ジャンフーケがパトロンのエティエンヌ・ジャバリエを描いた絵画。ジャバリエの右にいる石を乗せた聖書を持っている人はステファノ。つまり、カトリックの教義では守護聖人を認めているので、「信仰のご先祖様(守護聖人)にがっつり守られているよ」というジャン・フーケがパトロンをヨイショして描いた絵と考えられる。
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