ヨハネの福音書6章60~71節「イスカリオテ・ユダだけが『裏切者』なのか?」

説教

皆さんは「宗教」と聞いてどのようなイメージを持ちますか?

「怪しい?」ですか?

それとも「道徳的に良いことをしましょう」あるいは「信仰をもてばご利益を得れますよ」といった類のものを思い浮かべますか?

広辞苑の定義では

「神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖な ものに関する信仰」

とあります。その定義に従えばイエス様の語られた福音は宗教ではありません。イエスキリストは隔絶された世界にいるのではなくて、この世に人の姿をとって人間と交流をもつためにこの世に生まれてこられましたし、本章の前段では「形骸化した宗教行事を守ることなどに意味はない」とか、「奇跡だって予兆以上の意味を持たないし奇跡を体験したって救われない」とも仰っています。イエス様自身がパンであり、そのイエスの血肉を食べないと救われない。食べた人が救われるっていったのです。あまりにも荒唐無稽で「宗教」の定義からも「救世主」のイメージからも外れています。この説教を期にさっと、潮が引くようにイエス様推しの「ファン」はいなくなりました。そして、十二弟子だけが残ったのです。しかし、その十二弟子の中からもイスカリオテ・ユダという裏切者がでてきますし、ユダによってイエス様が逮捕されるその時、残りの十一人の弟子も自分の命欲しさに全員蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったのです。つまり全員が裏切者なのです。全員がイエス様にに対して不誠実だったのです。また全ての人類がイエス様とイエス様をこの世に遣わすことにした父なる神様に対して不義理であったのです。では、裏切者のユダとクリスチャンとは何が違うかといえば、正直にイエス様の前に進み出て「私は不誠実です。わたしは罪びとです。」といって「ごめんなさい」と告白し、こんな不義理な人間のために身代わりになって十字架にかかってくれて「ありがとう」。といえる(た)かどうかしかないのです。

キリスト者が行うどんな善行もそれが救われるための条件ではありません。むしろキリスト者のあらゆる善行はキリストに愛され、罪赦されたことからによる感謝の気持ちが燃料、原動力となっています。そうでなく、自力で正しくあろうと律する根性だけでは、いずれは疲弊し燃え尽きてしまいます。

サムネイルはジョット・ディ・ボンドーネ作「ユダの接吻」

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