出エジプト32章1~14節「これだけは知っておきたいモーセの十戒第二戒」
モーセの「十戒」と呼ばれるが、カトリックとプロテステント(ルーテル教会を除く)では実は戒めの数え方が違います。カトリックは第一戒「ヤハウエ以外を神とするな」と第二戒「偶像礼拝の禁止」をまとめて一つと捉え、代わりに第十戒を「他人の妻を欲してはならない」と、「他人の財産を欲してはならない」の二つに分けています。意外なことに東方正教会とプロテスタントは同じ数え方をします。もとい、十戒には番号がふられていたわけではありません。(当時のヘブライ語には数字がなく、アルファベットの順番が数字に対応していた)
このあたりが、教会のカトリック教会のあり方(聖像であれば像を作り崇敬することを許容し、一方で性に関しては禁欲的であること)に関係しているのかもしれません。ただ、この読みは無理があるのは、出エジプト記32章との関連です。まさにモーセがシナイ山に登ってこの十戒のかかれた石板を神託されるときに、痺れを切らしたユダヤの民はモーセの兄アロンを突き上げ、その声に押しきられれたアロンは金を集めて子牛の像を鋳造し、この像をもって、「私たちの神様だ、エジプトから我々を導きだしたヤハウエだ」といいました。ヤハウエ以外の神様を拝んだわけではなく、あくまで出エジプトをもたらしたヤハウエ神だと抗弁したのです。シナイ山から下山したモーセがそのことを咎めています。やはり、聖書の神様は偶像を伴った礼拝を嫌われます。イザヤ書やエレミヤ書では、神と人との関係を陶工と粘土の関係にたとえています(イザヤ29:16他)。偶像礼拝の許容は造物主と被造物の立場の違いを曖昧にしてしまいます。さらには、イザヤ書44章で9~20節で偶像を作るものの虚しさを語りその前後では、あなた方人間は神である私が作った尊いものだと宣言されています。偶像礼拝の禁止はせっかくあなたを素晴らしい命ある存在としてつくったのに、心も命も力もない木や石で神をつくり、その神に跪くことで自身をそれ以下の存在(木偶の坊)に貶めるなというメッセージでもあります。また、それ以外に十戒において礼拝の規定がないことは自由な礼拝を喜んでくださっているともいえます。偶像礼拝の罪を犯す民の罪を必死に取りなすモーセの姿は十字架上で「父よ彼らをおゆるしください」と取りなす主イエスの姿とも重なります。
※サムネイルはアントニオ・モリナーリ作「黄金の子牛の礼拝」
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