ヨハネの福音書7章53~8章11節「優しすぎる」と言われたイエス様のエピソード

レンブラント作「姦淫の女」 説教

ヨハネの福音書8章「優しすぎる」と言われたイエス様のエピソード

邦訳された聖書の版にもよりますが、ヨハネの福音書7章53節~8章11節は本文に[]がついていたり、※がついていたりしているはずです。紀元5世紀よりまえの古い写本にはこの段落が欠落しており、掲載されている写本であっても7章の仮庵祭の話の腰をおらない所や、21章末に短編として、あるいはルカの21章と22章の間に挿入されている写本もあります。こういった原典にない挿話は長い間の写本研究によって、現代では本文から除外されるのですが、イエス様の「優しすぎる」お人柄をありありと示すエピソードで福音書とは別話として口伝、短編としてあったものが正典化の過程で散逸するのがあまりにおしいと考えた教会が写本作成過程で本編に収録されることになった、知られているおさらく唯一の事例がこの話なのです。 この話、冒頭、姦通罪にで逮捕された女性が引きずり出されます。聖書は姦通と不品行とは分けて規定しており、姦通の規定はレビ記20章10節や申命記23章にあり、律法によれば男女ともに罰せられる必要がありますが、連行されてきたのは女性だけ…ここに、この事件はただイエス様を嵌めるために前もって準備されていた巨悪が潜んでいたことが推察されます。また当時からも、実際としては離婚させて示談金をはらったり、証言の信ぴょう性に疑問を呈して、「起訴」までせずに宗教裁判にまで発展させないで穏便に取り計らっていたようです。  ファリサイ派の人たちはイエス様もジレンマに陥れようと下のでしょう。「律法どおり石打にせよ」といえば、ローマの裁判権に抵触することになります。また逆にイエス様が「石打にするな」といえば、「律法をないがしろにしている」と責め立てることができると踏んだのでしょう。実際、徴税人や遊女といった罪びとに寛大な裁定をする「優しすぎる人」と見る向きがあったので「石を投げるな」と回答するとの打算が働いていたと考えられます。しかし、実際イエス様の回答は罪のない人から「石を投げよ」であり、姦通を犯した女性に対して、「罪に定めない」「もう罪を犯すな」であり「罪ではない」とおっしゃったわけではありません。イエス様はだ優しい方ですが、罪に対して「tolerance」(寛容である、許容する、いい加減)であるわけではないのです。そのギャップを埋めるために主は十字架にかかられたのです。

サムネイルはレンブラント・ファン・レイン作「姦淫の女」の下半部

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