マタイ27章1~5節「イースター イエス・キリストの復活」
イースター(復活節)の主日礼拝です。年に一度特にこの日に世界中の教会でイエス様の復活がお祝いされます。が、教会の最初期は日曜日毎に祝われていました。イエス様が復活した日だから日曜日を、「主の日Lord’s day」と言い、ギリシャ語なら主人がキュリオスなので主日はキリアキ ラテン語の主人を表すドミヌスなので主日は欧州言語の多くはドミンゴとかそれに近い発音になっています。今日のテキストでは、まだ主日という名前もついていない時、週の初めの日という言い方しかなかったときの事です。マグダラのマリアたちは死臭の匂い消し、死体の世話をしに墓に来ました。死者であるイエス様が生き返り、生者である番兵が死人のようになったとは、著者であるマタイのユーモアです。その後、淡々と復活の事実を書きます。マタイは、復活を無理に立証しようとせず、皮肉というかアンチクライマックスという修辞法をつかって、読者に問うているのです。「キリストの復活の出来事が無かったとすれば、弟子たちによる遺体強奪事件ということになるがそれでいいか?」と。死者が生き返るなんてありえない…確かにそうです。昔の人にとってもそうでした。もっと根源的な問いをしましょう。人はなぜ死ぬのでしょう?なぜ人は死を恐れるのでしょう?なぜ、人は古今東西人身供養をして、不安を取り除こうとするのでしょう。人に罪があり、罪があるために人間が死すべき存在になり、また死後に人は神の前にたたねばならないことも、このままでは神の前に申し開きができないことも、人は知識としてでなく本能の次元で知っているのです。(ヘブライ9章27節) イエス様は、この漠然とした、でも根源的で全人類にもたれかかる罪と死の問題を解決するためにこの世にこられ、罪なき人生を歩み、十字架にかかり復活することでこの問題への救いを成就したのです。死人が生き返ることもありえないが使徒ペテロに言わせれば罪なき神の独り子が死にしばれ続けることもまたありえないのです。(使徒2章24節) 天使が、またイエス様が弟子たちにいいます。「ガリラヤで再会しよう」と。ガリラヤは弟子たちの故郷、イエス様と出会った所、献身したところです。弟子として三年半イエス様つき従って最後に彼らは従い通せず、失敗しました。何もかもなくした弟子たちに尚もイエス様は「ガリラヤで再会しよう」と仰ってくださるのです。救いに必要なのは献身前の功績でも献身後の功績でもなく、イエスに出会い、イエスを信じたということだけなのだとイエス様は私たちにも語りかけてくださいます。
サムネイルはバルトロメオ・スケドーニ作「キリストの墓の前のマリアたち」
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