ルカの福音書6章37~42節 教会に傷ついたあなたへ(あるいは人の裁き方)

裁きの天秤 教会に躓いたあなたへ
裁きの天秤

ルカの福音書6章37~42節 教会に傷ついたあなたへ(あるいは人の裁き方)

イエス様は人を裁くなと説教の中でおっしゃいます。かといって、教会の中で裁かれるべき人が裁かれずにそれが為に傷ついて教会をさる人がいます。一方で教会で裁かれるべきでないことで裁かれて教会を去る人がいます。その線引きはどこにあるのでしょう。イエス様も目の中の丸太、他人のおがくずのたとえの中で、自身の目の中の丸太を取り除いたうえでは、他人のおがくずをとる行為をすることができるとおっしゃっていて、

裁くこと、白黒をジャッジすること、そのものを否定しているわけではありません。ただ丸太がために、間違いを犯しやすく、裁きは極めて謙抑的でなければならないと諫めておられるのです。

ここでいう裁きとはなにも教会裁判所を開設して判決を下すことだけをさしているのではなくて、平たく言えば価値観の押し付けです。

「裁いては」いけない理由は2つあげられており、その一つは「裁かれないため」です。次に「裁くにしても、その価値観、判断力は罪の影響力のため、丸太が目に入っているのと同じで全く充てにならないから。」とされています。後者の状態を少しでも改善するために、師にならい、修行をするうように勧められています。これは来世への救いのために必要なことなのではなく、教会の中で、クリスチャンの共同体の中での円満で、円滑な交流のために必要なことなのです。

具体的には、自分の生まれ育ったコミュニティーの価値観ではなくて、聖書の価値観に従うことです。(聖書神学)。次に聖書の価値観に従うにしても人は、聖書の中から自らと違う価値観を読み取ろうとするのではなくて、聖書の中に自らの価値観読み込もうとしますから、教会史の中で同様の事案があった時に教会はどのように判断したのかを学んだうえで判断するということです。(歴史神学)。そう、教会の中で教会員自らが教会を運営していく中でそのような専門知識にアクセスし、判断材料を提供するために牧師が存在します。もし、牧師がヒツジである教会員を裁くことがよもやあるなら、それは羊自身が他の羊を攻撃し、他の羊が神さまを礼拝できなくなるようにしたときに限られるでしょう。その時こそ、牧師は牧師の権威に基づいて裁きを行うべきで、それ以外はつとめて羊の自由を伸長する教会、それを教会のモットーとしたいと考えます。(戦う民主主義)

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