コリント第一の手紙12章26~27節 あなたは一人ぼっちじゃない
今日の聖書箇所は、バプテスト同盟の本年度の主題聖句であり、先月京都で開催された同盟総会でも掲げられた聖句です。年に一度は日曜礼拝の説教のテキストとして同盟の主題聖句を扱うことで、日本バプテスト同盟に加盟する教会としての連帯の意を表したいと思います。
あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。
フィレモンへの手紙 14節
もともと、旧約聖書にも、新約聖書にも「個人主義」等という考えはありません。思想史的には18世紀中ごろに発生し、アメリカで花を開いて、キリスト教、西洋文化と一緒に日本に渡ってきた「舶来」の考え方でキリスト教と渾然一体なものとして理解されますが、実際は別物です。現代人が感じる「孤独」「寂しさ」などは人類史の全体からみれば、行き過ぎた「個人主義」からきているといっても過言ではないでしょう。何をおいても個人の意思、個人の選択が絶対視されます。しかし、私たちは生れる時代を、親を、第一言語をを選択できたでしょうか?むしろ、人生における大きな部分を時分の意志によらないところで、神様によって予め定められたのです。今日、あなたが我孫子教会の礼拝に参加しているのも、あなたはあなたの意思のつもりでも、神様の召しによってのことだということをしってください。聖書によれは教会とは建物を表すのではなく、エクレシア、「召しだされた者の集まり」という意味であり、その人の集合体を、キリストのからだといいます。
また、コリント書12章27節では、あなたがたはキリストの体であり、またひとりひとりはその部分である。と訳されている部分は古い英語ではメンバー(会員)と訳されています。教会全体は体組織のように構成されており、私たちひとりひとりは、(あなたの意思いかんにかかわらず)既に組織の構成員なのだ。という宣言なのです。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。
コリント人への手紙 第一12章26~28節
バプテストとは、神様の前に見え、人には「見えざる教会」霊的教会と、人の前に建物や法人として「見える教会」を一致させようとする営為と言い換えることができるでしょう。そうはいっても一致させれないいろいろな事情があるのでしょう。パウロもそうでした。パウロを宣教師として送り出したのはアンテオケ教会でしたが、その教会の共同責任者であったバルナバとケンカをしてしまい、結果アンテオケ教会との関係も悪くなったことが使徒言行録から推察できます。また、パウロはこのコリントの手紙を書いた時点で、どこの教会の教会員だったのでしょう?アンテオケを離れ、エフェソ教会の所属だったようにも見受けられます。また、フィレモン書をみてみましょう。彼自身、見える教会のいざこざに翻弄され、見えざる教会とのギャップに苦しむ中で、キリストの体なる教会を構成するために召された者としていかに歩むべきかをと自問しつづけたのです。
※サムネイルはピーデルパウルルーベンス作「村の祭り」
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