今度の日曜日、2024年9月29日の礼拝の説教は「チー牛」と呼ばれる人も救われる。です。皆さんお誘いあわせの上ぜひお越しください。
今こそ「チー牛神学」を!
ふざけたような説教題に見えるかもしれないが実は大真面目である。
一昔前に神学界で水牛神学 というのが注目された、東南アジアのゆっくりとした時間の流れの中で水牛のようなアプローチが必要だと小山晃佑先生が説いた書物だ。当時この神学が驚きをもって紹介されたのは、アジア発であるということと同時に小山先生が日本の神学界で全くと言っていいほど、注目されていなかったことだ。それくらい日本のキリスト教界というのは閉鎖空間にある。
今回、説教題に用いたのは「水牛」ならぬ、「チー牛」である。水牛神学を知っている層はチー牛をしらず、現代における被差別階層であるチー牛もまた多くは水牛神学はおろか、神学 も キリスト教 も知らないでいる。21世紀の日本のキリスト教会は現代社会の狭間に落ち込んだ真の弱者に救いの手を差し伸べるべきだろうが、本当の弱者であるチー牛たちに届く言葉を持たないばかりか、本当の弱者であるチー牛を認識もせず、チー牛と呼ばれる人たちがいることすら、その言葉すら認識されていないのである。これはゆゆしき事態だ。
チー牛、その出処はネットスラングである。じゃあ、はやり言葉かといえば、この言葉が使われ始めて15年以上たち、いまだに死語にならず使われている。教会の20代の若者にきけば、自分も自分の周りの友人もみなこの言葉を知っており、認知度はほぼ100%だと思うと回答する一方、教会のボリューム世代である60代でこの言葉を知っている人はほぼ皆無であった。問題が問題として顕在化して15年以上たつのに、まだ認識すらできていないのだ。
今こそ、チー牛に届く、言葉を福音を!
※チー牛(ちーぎゅう)…元はチーズ牛丼の略、2008年頃あるインターネット掲示板で、就労支援をはじめとして行政支援を受ける弱者男性の外見を「チーズ牛丼を食べてそう」と嘲るように投稿したのが始まりで、根暗な人、オタクの人、弱者男性 を揶揄する時に使われる言葉
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