ルカ福音書9章46~48節『チー牛』と呼ばれる人も救われる

説教

ルカ福音書9章46~48節『チー牛』と呼ばれる人も救われる

本日、説教題にあえて、チー牛(ちーぎゅう)という言葉を上げさせて頂きました。元はチーズ牛丼の略です。2008年頃あるインターネット掲示板で、就労支援をはじめとして行政支援を受ける弱者男性の外見を「チーズ牛丼を食べてそう」と嘲るように投稿したのが初出です。根暗な人、オタクの人、弱者男性 を揶揄する時に使われる言葉です。それが、今日の説教となんの関係があるのか?弟子たちの鈍さと関係があります。弟子たちは誰が一番偉いかと論争をしていました。変貌山の出来事の後です。あの奇跡を見せられた後で、なおも偉さ、尊さを競い合っていたのです。イエス様がその愚かさを分からせるためにショック療法として、視覚教材として、子どもの手をひいて、この小さい者を受け入れる者が偉大であるとおっしゃいました。もし、大人のような卑屈なものではなく、尊い子どものような素直さを持たなければと理解するなら、鈍いのは弟子たちではなく、読者である私たちです。弟子たちが誰が一番偉いかというのはそういう片意地はらなきゃ生きていけない、男として出世して一旗あげなきゃいけないという価値観に縛られていたように、私たちもこどもが素直だという現代の価値観に縛られているのです。この時、誰が一番偉いか、誰ば一番「偉大」であるかを競い合っていたからこそイエス様は敢えてその逆の者つまり、一番「偉くない人」を連れてきたわけですから、ここでいう、最も小さい者というのは「幼小」という意味ではなく「卑小」という意味です。この当時の社会は少子高齢化社会ではなく、多産多死社会。こどもが人口の半分を閉め、半人前の価値もなく、もっとも粗雑に扱われていました。イエス様は社会で最も粗雑に扱われ、価値がないとされている人間を受け入れるようにとおっしゃったのです。直前の記事でルカは五千人の給食の奇跡を記述しています。この5000人は成人男性だけの数です。聖書記者も当時の価値観の枠内でおんな子どもを人と扱わず、人数に数えないようなモノの見方しかできていなかったのです。当時の読者も聴衆も弟子たちも、まして著者も気づかない価値観を主イエスは説いていたことが著されている不思議な書物が聖書であり、聖書の真の著者が神であるといわれる所以です。

見えていないのは鈍いのは弟子たちもそうですが、私たちこそ、社会の価値観に流されて見えていないのではないでしょうか。21世紀の日本にイエス様がこられて同じ場面に出くわしたら、イエス様は誰を手に取り、ご自分の側に立たせるでしょう、私は「チー牛」と呼ばれる成人男性をむしろ側に立たせるのではないだろうかと思うのです。そして、そんな神様だからこそ私はキリスト者になるよう選ばれたのだと。

※サムネイルは筆者撮影「チーズ牛丼」

あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。申命記7章6~7節

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