創世記 22 章 6-8節 「主が備えてくださる献げ物」

篠遠神学生説教 説教
篠遠神学生説教

創世記 22 章 6-8節 「主が備えてくださる献げ物」

讃美歌 21-210、21-543  交読文 詩編 40 編 6-12 節

この聖書箇所は、教会学校/チャーチスクールなどでも、多く語られる箇所だと思います。多く語られる箇所ですが、案外、難しい箇所だと思います。なにしろ、アブラハムが 100 才の時に、神様の祝福によって与えられた、唯一無二の跡継ぎの息子のイサクを、生贄としてささげなさいと言うのです。大事な息子の命を、捧げなさいと言うのです。 衝撃の命令です。神さまは、すごい、ご褒美を与えておいて、あえて、それを取り上げることを命じるのです。
実は、この衝撃の命令は、神様からアブラハムへの最終試験でした。
ここで、最初に、アブラハム物語の概略をお話しいたします。
アブラハムは 75 才の時に、初めて神様の命令を聞いて、信じて、従って、旅を始めて、そして、各地で祭壇を築いて、礼拝を捧げました。神さまを信じて、従って、礼拝を捧げ続けたので、神様から守られて、何度も祝福を受けました(4 回)。
そして、神様しかできない、祝福の約束の契約が、与えられました。アブラハムの子孫に約束の地があたえられる。アブラハムの子孫が星の数ほどに増える。そのような神様からの、一方的に祝福された契約が与えられました。
しかし、聖書では、アブラハムも私たちと同じ間違いを犯す人間として書かれています。アブラハムは、その旅の間に、妻のサラを妹だと 2 度も偽って、サラに好意を寄せた、エジプトのファラオや、ゲラルの王アビメレクと、問題を起こしました。 しかし、神様に守られて、最後は多くの贈り物を受け取りました。また、神様からの約束を待てずに、妻サラの女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルという男の子を設けましたが、後に、妻サラの嫉妬によって、ハガルとイシュマエルの母子を追い出してしまいました。このように、時には、人間的な自分の考えで行動することもありました。
一方、家族や一族を守る族長としての苦労も書かれています。戦争に巻き込まれて連れ去られた、甥っ子ロトの家族や財産を追いかけて、訓練を受けた三百十八人を連れて武器を持って、甥っ子ロトと家族を救出しました、また、アビメレク王との間に井戸の所有権のもめごとが起こりましたが、交渉によって、争いを避ける契約を、交わしました。そのような経験の中で、神様に従う旅人/他国に住む寄留者として、神様の導きの中でアブラハムの信仰も整えられて行きました。
アブラハムが 100 才の時には、跡取り息子のイサク、今日の聖書箇所のもう一人の登場人物イサクが与えられていました。そして今日の聖書箇所を含む創世記 22 章で、神様はアブラハムに最後の試練/卒業試験のような試練を与えました。

この創世記 22 章1節から見て行きます。
100 才になってからの、神様からの約束の贈り物である、息子イサクを、生贄としてささげなさい、と神様は言います。
神様は、イサクを与えて、そのイサクが元気に成長してから、あえて、それを取りあげることを命じたのです。この衝撃的な神様の命令について、3 節で、「朝早く起きて」、と書かれているので、アブラハムはすぐに決心をしました。イサクと、若い僕二人を伴って、神様から命じられた、モリヤの地に向かいました。 このモリヤの地はエルサレムのことです。5 節で、アブラハムは二人の若い僕に、ここで待つように指示をして、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と言いました。
それでは今日の聖書箇所です。
6 節で、イサクは薪(まき)の木を背負って歩きました。 生贄として捧げられるために、自ら木を背負って歩きました。そして、6 節の最後に、「二人は一緒に歩いて行った。」と書かれています。親子二人が、会話もせずに黙って、トボトボと歩いているような情景が浮かびます。
次の 7 節で、たまりかねたように、イサクが、父に、声をかけます。 「わたしのお父さん」。 アブラハムは答えます、「ここにいる。わたしの子よ」。イサクは、父に聞きました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは 8 節で言います。「わたしの子よ」、といってから答えます。 「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」と。アブラハムはどのような気持ちで言ったのでしょう。 また、イサクもどのような気持ちで聞いたのでしょう。二人の気持ちは、書かれていませんが、 8 節の最後、先ほどの 6 節に続いて、「二人は一緒に歩いて行った。」 と書かれていて、ふたたび、二人で、黙って、トボトボと、歩いているように、感じます。
この後(あと)、目的地に着いて、アブラハムは祭壇を築いて、息子イサクを薪の上に載せました。イサクも、何も言わずに従いました。すると天からの主のみ使いに止められて、イサクは助けられて、しかも、神様から御羊の供え物が与えられました。そして再び祝福、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」と祝福を受けました。
アブラハムは神様からの最後の試験/卒業試験に合格して、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」と、後の世の、地上の多くの国民はすべて、アブラハムの子孫によって祝福を得る、と大きな約束が与えられました。 今日の聖書箇所のストーリーはここまでです。
結果としては、アブラハムは神様に素直に従ったので、イサクも救われて、さらに、アブラハムは再び神様からの祝福を受けました。しかし、なぜ、神様はアブラハムに、わざわざ、このような試練を与えたのでしょうか。もう少し言いますと、なぜ、旧約聖書にこのようなお話しが載せられたのでしょうか。

一番は、アブラハムのように、神の声に素直に従う信仰が大事だと言うメッセージです。この世では時に試練が与えられますが、時に神様がご存じの上で試練が与えられます。どのような試練が与えられたにしても、神様を信じて、どのような結果になっても、神様から離れないこと。それが大事だと言うメッセージです。
二番めは、歴史的、地理的な見方からのメッセージです。当時のカナン地方の、偶像の神による風習では、本当に自分の子どもを生贄として差し出すことがありました。しかし、私たちの真実の神様は、カナンの偶像神が求める子どもの犠牲を望まない、それを忌み嫌って、嫌悪したと言うメッセージがあります。 私たちの神様は、子どもの命を大事にする神様だと言うことです。
そして、三番め、もう少し考えると、アブラハムが試練を乗り越えるというこのストーリーが、聖書に書き残されるために行われたと言うことです。 神様がアブラハムに試練を与えたのは、アブラハム自身がそれを乗り越える経験をして、その経験を通して、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるにふさわしい人間の代表として、聖書に記されて、信仰者の手本として伝えられること、にあったのだと、考えることができます。 アブラハムは、神様の導きによって強められた信仰の故に、神様に聞き従うことができ、聖書に記されました。
最後、四番め、イエス・キリストを信じる私たちは、このアブラハムとイサクに、父と子の愛、神と御子の愛を知ることができます。今日の話で、イサクは何も言わずに従います。 アブラハムが神様に従順に従ったように、イサクも父に従順に従います。アブラハムは、神に従順に従って、自分の愛する息子/自分自身に等しい、愛する子を献げることを厭(いと)わなかった。そして息子イサクも父に従って、自分がささげられることを厭(いと)いませんでした。アブラハム、またイサクも、自分に課せられた命令に従順に従いました。
イサクは、生贄としてささげられるために、木を担いで歩きました。そして、木の上に生贄として載せられました。いけにえとして、ささげられるために、木を担いで、木の上に掲(かか)げらた方を、わたしたちは知っています。父なる神は、愛する御子イエスを贖いの生贄として、供えられました。 御子イエスは、父なる神に従順に従って、木でできた十字架を、担いで、歩いて、十字架の上に掲げられました。
イエス・キリストを信じる私たちは、ここに父の愛の苦悩と、子の愛の従順を重ねて知ることができます。
今日のお話のように、ユダヤ教では、子どもを犠牲として献げることはありません。しかし、人間の大きな罪を贖うためには、動物の命、貴重な、命、を献げる必要がありました。 しかし、神様がアブラハムとイサクに、御羊を備えてくださったように、イエス・キリストの信仰を持つ私たちには、御子イエスの十字架の死による、ただ一度だけの究極の命を、備えてくださいました。 動物の犠牲の命を献げることから解放されました。 それでは、私たちは、動物の命ではなく、何を献げるのでしょうか。

ヨハネによる福音書4章 23 節、24 節をお読みいたしますのでお聞きください。
ヨハネ 4:23,24
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜな
ら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
ヨハネは言います。「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」

そして、霊と真理について、パウロ先生が私たちのために、エフェソの信徒への手紙 1 章 17、18 節で祈っています。
エフェソ 1:17,18

1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

パウロ先生は言います。 主イエス・キリストの神が、あなたがたに知恵と啓示との霊/聖霊を与えて、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、心の目が開かれることによって、神様が招いて、与えてくださる希望、と栄光の輝きを悟らせてくださるように、とパウロ先生は祈っています。霊と真理の、霊とは、与えられる聖霊です。 真理とは、聖霊によって悟ることができる、神様からの希望です。
そして、それを信じて受けとった私たち自身が、神様が備えてくださった献げ物なのです。
ローマの信徒への手紙 12 章 1 節をお読みいたします。

ロマ 12:1
12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生
けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」 今、私たちが神様への礼拝で捧げるのは、自分の体です。そして神様から与えられた、聖霊によって開かれた神様を信じる心です。 私たちは、自分の体を、そして、神様が招いて備えて下さった自分自身の心を、毎週の礼拝で、神様に献げます。
宗教改革者ルターは、アブラハムを信仰義認のモデルとしました。アブラハムは、神の命令を聞いたから祝福されたのではなく、信仰にもとづいて行動したから祝福されたと教えています。アブラハムは、神を信じて、神の声に従って旅を続けて、その寄留した先々で祭壇を作って、神様に礼拝を献げました。そして、愛する息子イサクを献げたのは、それは自分自身を神様に献げることと同じです。良く言われるのが、私たちも天の御国に帰るまで、この世を旅する旅人です。アブラハムを見習って、神様を信じて、生きているこの世で、神様に礼拝を献げます。今日、ともに礼拝を献げる私たち一人一人が、神様に導かれて、備えられた献げ物です。聖霊によって開かれた真心を持って、心からの祈りを持って、神様に、礼拝をお献げいたしましょう。
以上

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