1.はじめに、似た物?別物?共産主義とキリスト教
ある人は
共産主義=神はいない、と考える立場
キリスト教=神を信じる立場
と分けて全くの別物だといい、共産主義に反対します。(この立場を反共主義といいます。)また、ある人は共産主義もキリスト教も平和運動をし、格差社会に反対するので、似た者同士だと共産主義を容認してしまっている人も一部にいます。(この立場を容共主義といいます。)はたしてどちらが正しいのでしょうか?
今回の論考では共産主義の思想が誕生するまでの変遷を歴史神学的、教理史学的にたどっていきます。すると
共産主義の考え方は、もともとキリスト教の考え方(神学)から生まれ、
中身だけを「神」から「人間と社会」に入れ替えていったものだ
というキリスト教の立場から見れば共産主義はキリスト教の異端なのだという流れが見えてきます。
その道筋で大事になる人たちが、ヘーゲル、ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)フォイエルバッハ、マルクス、エンゲルス、幸徳秋水といった人たちです。
2.ヘーゲル:キリスト教の物語を「哲学」にした人
最初に出てくるのが、ドイツの哲学者ヘーゲルです。
ヘーゲルはキリスト教をとても大切な宗教だと考えました。
キリスト教には、おおきな物語があります。
神が世界を創造した(はじまり)
人間は罪によって神から離れた(まちがい)
イエス・キリストの十字架と復活によって救いが与えられた(なおし)
最後に、神が歴史を完成させる(おわり)
ヘーゲルは、この物語をただ信じるだけではなく、
「神と世界の歴史を、哲学として説明してみよう」
としました。彼は、父なる神・子なるキリスト・聖霊という三位一体の教えを、「絶対精神」ということばで言いかえ、
神ご自身が世界に出て行き、
自分から離れたものを再び自分のもとに取り戻す
という運動として、歴史を理解しようとしました。
つまりヘーゲルは、
キリスト教の神学を、「世界と歴史の哲学」に翻訳した人
と言えます。
3.ヘーゲル左派とフォイエルバッハ:神学をひっくり返して「人間学」にする
ヘーゲルの弟子たちの中には、先生の考えを使いながら、もっと宗教批判に進んでいく人たちがいました。
それがヘーゲル左派、青年ヘーゲル派です。
その代表がフォイエルバッハです。フォイエルバッハは、ざっくり言うとこう考えました。
人間には、「愛したい」「良くありたい」「知恵を求めたい」という、すばらしい性質がある。
でも人間は弱いので、そのすばらしい部分を「神」というかたちで外に投げ出してしまった。
だから、神とは本当は「人間の本質をうつしたもの」にすぎない。
フォイエルバッハにとって、
「神が愛深い」のではなく、「人間が愛を外に投影して『神』と呼んでいる」
というわけです。こうして彼は、
神学(神について語る学問)を
人間学(人間について語る学問)へ
ひっくり返してしまいました。ヘーゲルが「神と歴史の大きな物語」を哲学にしたとすれば、フォイエルバッハはそれを
「いや、それはぜんぶ人間の話でしょう」
と、人間側へと引き戻したのです。
私は前の論説でカールバルトをはじめ、多くの神学者が、共産主義を神なき宗教とよんで単なる政治思想ではなく宗教的側面があると指弾してききたことを紹介しましたが、共産主義の前身であるフォイエルバッハの思想は本当に意図的にキリスト教神学から神様を取り除いた異端的な思想からスタートしたものだったのです。
4.マルクスとエンゲルス:人間学を「社会と経済」の学びへ広げる
次に登場するのが、共産主義の中心人物マルクスとエンゲルスです。若いころのマルクスは、フォイエルバッハの影響を強く受けました。そして宗教について、こんなふうに考えるようになります。
宗教は、つらい社会の中で、人々が自分をなぐさめるために作り出したもの。(マルクスの有名な言葉に「宗教はアヘンだ」という迷言?があります。)
だから宗教を批判するだけでは足りない。
そもそも、人が宗教にすがらなくてよい「社会の状態」を変えなければ意味がない。
そこでマルクスとエンゲルスは、目を向ける先をさらに広げます。
工場で働く労働者と、資本家
賃金と利益
商品とお金の流れ
社会の階級のしくみ
そういった「社会と経済の現実」を、こまかく調べ、考えました。
そしてふたりは、次のように考えるようになります。
資本主義という社会のしくみには深い矛盾がある。この体制のままでは、多くの人が苦しみつづける。だから資本主義をこえて、新しい社会(共産主義社会)をめざさなければならない。
ここで大事なのは、流れです。
ヘーゲル:キリスト教の物語を、神と歴史の哲学にした。
フォイエルバッハ:その神を、人間の本質の話にひっくり返した。
マルクス・エンゲルス:その人間の話を、さらに社会と経済のしくみにひろげ、革命と共産主義の話にした。
中身は「神」から「人間と社会」に変わりました。でも、骨組みはよく見ると似ています。
5.「物語の骨組み」は、とてもキリスト教に似ている
この構造が似ていることを形而上学的な類似性と呼びますが、難しいので「物語の骨組み」とざっくりと言い換えます。そしてキリスト教には、
はじまり(創造)→まちがい(罪と堕落)→なおす(キリストによる救い)→おわり(終末と完成)
という物語がありました。
マルクス・エンゲルスの共産主義にも、
はじまり(原始共産制のような、平等な状態のイメージ)→まちがい(私有財産や階級社会、資本主義による搾取)→なおす(階級闘争や革命)→おわり(階級も国家もない共産主義社会)
という物語の形があります。
神さまは出てきません。祈りも礼拝もありません。けれども、歴史には方向があり、今は中間段階だ。最後に、よりよい完成の状態が来るという**「物語の骨組み(形而上学)」**は、とてもキリスト教に似ています。
このように、中身(神)を否定しながら、物語の形(歴史のはじまりと終わり、救いのイメージ)を引きついでいるという意味で、共産主義はキリスト教神学をアウフヘーベン(否定しつつ取り込み、作り変えること)した思想、そして、共産主義者側からみれば彼らは断固として否定するでしょうがキリスト教側から見るとこれはキリスト教の異端的思想だと断言することができます。
6.日本に来たとき:幸徳秋水と「キリスト抹殺論」
このヨーロッパで生まれた流れは、日本にも入ってきました。
その一人が、高校の日本史でも学ぶ日本最初の社会主義者・幸徳秋水です。幸徳秋水は、社会の弱い人のために戦い、不正な政治や天皇中心の考え方を批判した人物です。同時に、キリスト教にもとても強い批判を向けました。それが『基督抹殺論』という本の題名にもあらわれています。この本で彼は、キリスト教の教えを信用できない。聖書には多くの問題がある。キリスト教は人々をしばるものだ。といった、非常にきつい言葉を使っています。ここでも、
愛や平等といった価値は大切にしている
しかし、そのもとになっているキリスト教そのものは強く否定する
という「近いからこそ、かえってきらう」近親憎悪のような姿が見えます。
7.キリスト教に近づく日本共産党(まとめ)
ここで、現代の日本共産党の話に少しだけふれます。
日本共産党の理論を支えた人たち(不破哲三氏など)は、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクス、エンゲルスという流れをきちんと学び、フォイエルバッハに関するテーゼや、マルクス主義の古典を丁寧に読み、日本の社会主義運動の先駆者として、幸徳秋水のような人物も大切にしてきました(墓参りが行われたり、顕彰されることもあります)。
以下に日本共産党機関紙赤旗に掲載されたリンク
つまり、日本共産党の指導部は、共産主義が、キリスト教神学の流れを受けつぎつつ、神を否定し、人間と社会だけで世界を説明しようとする思想だということを、理論的にはよく理解しています。一方で、現在の日本共産党は、表向きには、信教の自由を尊重し、宗教者とも対話し、協力し、キリスト教会とも共通の課題で手を結ぶことがあると説明します。
実際に、宗教者との懇談や共同声明も行われてきました。中にはキリスト教の牧師の立場でありながら日本共産党の街宣車にのって日本共産党支持を公言する人もいます。
普段は私は、教会の中で政治的な支持・不支持の呼びかけになってしまわないように、とても注意をしていますが、日本共産党、マルクス主義、(彼らが科学的社会主義と呼んでいるもの)は別です。それは以下に述べるようにキリスト教の異端だからです。
共産主義の形而上学は、もともとキリスト教の骨組みを借りながら、「神」を抜き去り「人間と歴史の法則」をそこに置き直したものであると歴史神学的に断言できます。その意味で、キリスト教が告白する神と福音を、深いところで否定し置き換えてしまう、異端的な構造をもっています。そうであれば、「宗教に寛容な顔」をしながら教会に近づいてくるとき、それは詐欺的で羊の皮を被った狼であるといえるし、キリスト教の牧師としてそのことについて警鐘を鳴らさなければなりません。
共産主義は、キリスト教とよく似た「救いの物語の形」をもちながら、
その中心にいるべき神とキリストを、人間と歴史の法則にすり替えてしまう思想です。ですからキリスト者にとっては徹頭徹尾反対しなければならない思想と言えます。
日本の教会としては、
共産主義思想の歴史的な成り立ちを知ることで
共産主義はヒューマニズムや正義、平和平等などといった耳障りの良く共感できる部分を前面に出して近づいてくる神と福音をすり替える危険な異端的な思想であることをしっかりと見破ることが、とても大切だと思います。

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