イラン戦争は果たして宗教戦争か?
イラン戦争を「宗教戦争」と呼ぶ雑さについて
「宗教が戦争を起こす」という分かりやすさ
今回の2026イラン戦争を見て、「やはり宗教は戦争を起こすのだ」と語る人が少なくありません。日本では、この説明はとても受けがいいのです。複雑な中東政治をいちいち理解しなくても、「宗教が元凶だ」と言ってしまえば、何かを見抜いたような気分になれるからです。
けれども、それは理解というより省略です。しかも、かなり危うい省略です。宗教戦争という言葉は、本来、神の命令によって、あるいは宗教目的そのもののために遂行される戦争を指します。ブリタニカも holy war(宗教戦争)をそのように定義しています。宗教的な言葉が飛び交っているからといって、それだけで宗教戦争になるわけではありません。
筆者の立場――福音派の外からではなく内から
私は福音派出身の現役の牧師です。しかも、外から噂で福音派を眺めてきたのではなく、世間でしばしば「あの、おどろおどろしい終末論の源流」として語られがちなディスペンセーション主義終末論の源流に連なる教派の出身です。
つまり私は、この話を福音派の外から雑に叩くために書いているのではありません。むしろ、その内部言語がどのように響き、どのように誤解され、どのように乱用されるかを知っている立場から書いています。
2026イラン戦争の中心は宗教ではない
その立場からあえて言いますが、2026イラン戦争の中心は宗教ではありません。中心にあるのは、核、ミサイル、ホルムズ海峡、地域抑止、同盟、体制維持です。
ロイターが3月末にまとめた報道でも、争点はイランの軍事能力をどこまで削ぐか、ホルムズ海峡をどうするか、イランの核・ミサイル能力をどう封じるかという点にあります。湾岸諸国もまた、停戦だけでは足りず、イランのミサイル・ドローン能力を恒久的に弱体化させる必要があると米国に迫っています。
ここで争われているのは、改宗でも布教でも教義の純粋性でもなく、むき出しの安全保障です。宗教は、せいぜいそれを正当化し、動員するための言葉として使われているにすぎません。
アゼルバイジャンが示す「宗教戦争」図式の破綻
このことを最も分かりやすく示すのが、イランの報復の向きです。もし今回の戦争が本当に「ユダヤ・キリスト教(福音派)VSイスラム教(シーア派)」の宗教戦争なら、イランの敵味方の線引きは宗教境界に沿うはずです。
ところが、現実はそうなっていません。ロイターによれば、2026年3月5日、イランから飛来した4機のドローンがアゼルバイジャン領ナヒチェヴァンに入り、4人を負傷させ、空港や学校近くにも被害を出しました。イスラム教シーア派の盟主国たるイランが攻撃を及ぼした相手は、イスラム教徒多数国であり、しかもシーア派多数のアゼルバイジャンだったのです。
ロイターも、アゼルバイジャンはシーア派多数でありながら強い世俗国家で、イランとの緊張の一因はイスラエルとの近さにあると伝えています。この一事だけ見ても、「ユダヤ・キリスト教(福音派)VSイスラム教(シーア派)」という単純図式が崩れているのは明らかです。
宗教的一体性よりも、国家利益が優先される
しかも、そのアゼルバイジャンはイスラエルの友好国です。ロイターによれば、アゼルバイジャンは2023年に初代駐イスラエル大使を任命し、イスラエルは近年アゼルバイジャンの重要な軍事的支援国でした。2023年時点でアゼルバイジャンはイスラエルの石油輸入の約4割を供給しており、2025年実績ではその比率は46.4%に達しました。
つまり、イスラム教シーア派の国アゼルバイジャンは、宗教的一体性よりも、エネルギーと安全保障の現実によってイスラエルと結ばれているのです。国家は宗派で動くのではありません。石油、兵器、回廊、抑止、国境、政権の生存で動きます。だからこそ、イランは「同じシーア派だから」といって、アゼルバイジャンを自動的に味方とは見なさないのです。
そもそも宗教戦争はそんなに多いのか
そもそも、宗教は頻繁に戦争の原因となる、という言説はどこまで正しいのでしょうか。この議論において、しばしば引用されるのが Encyclopedia of Wars(戦争百科事典)の数字です。三巻セットの大著ですが、Andrew Holt(アンドリュー・ホルト)がこの事典の索引を精査したところ、同著が扱う1,763の戦争のうち、「religious wars」に入っていたのは121項目、実数換算でも122戦争で、全体の6.9%にすぎませんでした。
もちろん、どこまでを宗教戦争と数えるかには議論があります。Holt自身もそのことを認めています。しかし、少なくともこの有名な戦争事典を前提にする限り、「戦争の大半は宗教が原因だ」という通念は成立しません。むしろ逆です。宗教戦争は、歴史全体の中では少数派なのです。
なぜ日本では宗教だけが犯人にされやすいのか
それにもかかわらず、日本では宗教だけが特別に嫌われやすい。理由は簡単です。宗教を犯人にすれば、現実をあまり勉強しなくて済むからです。核抑止を考えなくてよい。海峡支配を考えなくてよい。石油供給網を考えなくてよい。同盟と代理勢力を考えなくてよい。「宗教は怖い」で話を閉じれば済む。
しかし、その手軽さは知性の勝利ではありません。むしろ思考停止です。イラン戦争を宗教戦争と呼ぶ見方は、宗教を批判しているようでいて、実際には戦争の本当の原因から目をそらしています。
雑な福音派理解が、雑な中東理解を生む
最近はインターネット番組などで、「元福音派」や「福音派ウォッチャー」のような立場から、福音派をもっともらしく解説する人たちもいます。けれども、その種の解説には、個人的な体験や特定の狭い教派経験を、そのまま福音派全体の説明にすり替えてしまうものが少なくありません。
そして、その雑な福音派理解が、そのまま雑な中東理解に接続されます。福音派は危険、終末論は危険、だからイスラエル支持も中東戦争も全部宗教のせいだ、というふうにです。しかし、それは説明が早いだけで、現実には届いていません。福音派の内部も、中東政治の現実も、どちらもそれほど単純ではないのです。
結論――宗教を悪玉にしても現実は見えない
掲題の問いへの答えは明快です。イラン戦争は、厳密な意味での宗教戦争ではありません。戦争を正当化し、大義を与えるために宗教用語をまとってはいても、その主たる原因は核、ミサイル、石油、海峡、同盟、体制維持です。そしてアゼルバイジャンの事例が示すように、現実の敵味方は宗教境界線どおりには並びません。
宗教を批判する自由は、もちろんあります。けれども、批判するなら事実に即して批判すべきです。宗教が嫌いだからといって、あらゆる戦争を「宗教のせい」にしてよいわけではありません。その雑さは、反宗教というより、反知性に近いと私は思います

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