説教

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サムエル下12章1~12節 「〇〇ファーストもセカンドも無い世界」

少数者が、弱者が多数派におもねろうとして必死にマジョリティー以上にらしさを追及して人知れず努力する…そこに涙ぐましい努力があることを3000年前の書物であるにも関わらず、聖書は驚くべき程クリアさをもって、その気持ちに焦点をあて語っています。神は小さき者、声なき弱者の神なのです。
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ルカ福音書8章40~48節 いい加減な信仰なのに認めてくださった

 彼女の信仰理解は呪術的、御利益宗教的、機械的なものでした。このままでは彼女は真に救われないとみた主イエスは、自分から力が抜けていった原因となった彼女に正直に告白すること、人格的な交流を望まれました。その中で彼女は主に対して信仰は正統的、人格的、霊的、有機的なものに「観念」させられ、全てを正直に洗いざらいはなすことになりました。彼女はいつから「正しい」信仰を持っていたのでしょう。正しい信仰を持つ前から愛され、信仰も神が正していただけたのです。
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ルカ8章26~39節「自己責任論では浮かばれない人たちへ」

イエス様は自己責任論で割を食う、人間社会全体の構造的な罪をも最終的には解決するためにもこの世に来てくださったのです。
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コリント第一の手紙12章26~27節 あなたは一人ぼっちじゃない

バプテストとは、神様の前に見え、人には「見えざる教会」霊的教会と、人の前に建物や法人として「見える教会」を一致させようとする営為と言い換えることができるでしょう。そうはいっても一致させれないいろいろな事情があるのでしょう。パウロもそうでした。パウロはこのコリントの手紙を書いた時点で、どこの教会の教会員だったのでしょう。また、フィレモン書をみてみましょう。彼自身、見える教会のいざこざに翻弄され、見えざる教会とのギャップに苦しむ中で、キリストの体なる教会を構成するために召された者としていかに歩むべきかをと自問しつづけたのです。
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ゼファニヤ書2章1~7節 聖書の中のパレスチナ問題

パレスチナというのは「ペリシテ人の地」の意味です。ゼファニヤ書にもガザやペリシテの名が出てきます。ペリシテ人とはサムエル記で契約の箱を一時奪った民であり、ダビデ王のお話しに出てくるゴリアテや士師記のサムソンのお話しに出てくるデリラがペリシテ人です。
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ルカ福音書8章4~11節 種蒔く人のたとえ

読書好きの方は、岩波書店のマークを思い浮かべることでしょう。岩波書店のHPには「創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました.茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で,「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田園生活を好み,詩人ワーズワースの「低く暮し,高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました.」とあります。
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ルカの福音書22章35~38節 「二振りの剣 イエスは武力を肯定されるのか?」

本日のテキストは歴史的には「両剣論(theory of two swords)」と言われ、カトリック教会では教皇権と皇帝権をあらわす淵源として捉えれてきました。
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フィリピ書4章13節 強さを下さる神 

ミャンマーの少数民族 カチン族のラサン・ラアウン宣教師より、証を交えた説教。
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ハバクク書 神様がいるなら何故この世に悪が栄えるのか?

ハバクク書 神様がいるなら何故この世に悪が栄えるのか?
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ルカの福音書7章36~50節 信じるだけで救われるのにどうして教会に通うのか?

信じるだけで救われるのにどうして教会に通うのか?イエス様が敵対しているファリサイ派の家に招かれて食事をすることに違和感を...