ヨハネ14章1~3節 父の家でまた会いましょう

説教

ヨハネ14章1~3節 父の家でまた会いましょう

1.導入 ― 思い出とともに

今日は、昇天者記念礼拝のひとときです。
この日は、先に天に召された方々を覚え、
その生涯を思い起こしながら、神さまの前に感謝と希望を新たにする日です。

きっと皆さんの心の中にも、今、懐かしいお顔が浮かんでいることでしょう。
いつも笑っていたあの方。
優しく声をかけてくれたあの方。
食卓を囲んでいた日のぬくもり、
手を握りしめてくれた最後の瞬間――。

思い出すほどに、心は温かくも、少し痛みます。
もう一度会いたい。もう一度話したい。
そんな思いが胸にこみあげてくるかもしれません。

けれど今日、神さまの御前に集まった私たちは、
ただ「別れ」を思い出すためではなく、
「再会の約束」を思い起こすためにここにいます。


2.弟子たちの不安と、イエスの言葉

イエス・キリストもまた、
愛する弟子たちと「別れの時」を過ごされた方でした。

十字架にかかる前の晩、
弟子たちは不安と悲しみに包まれていました。
主が「もうすぐあなたがたのもとを去る」と語られたからです。
「先生、どこへ行かれるのですか?」と、
弟子のペテロやトマスは必死に尋ねました。

その時、イエスは静かにこう語られました。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。
神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
わたしはあなたがたのために場所を用意しに行くのです。
そして、行ってあなたがたのために場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」

弟子たちはきっと、この言葉を聞いてもまだ完全には理解できなかったでしょう。
でも、のちに復活された主に出会ったとき、
彼らははっきりと悟ったのです。
**「別れは終わりではなく、始まりだった」**と。


3.「父の家」とはどんな場所か

イエスが語られた「父の家」とは、天国のことです。
けれど、これは“雲の上の遠い世界”というより、
“神の愛に包まれる居場所”という意味です。

小さな子どもが、お母さんの腕の中に帰るように、
人生の旅を終えた者が、神のもとに帰る――それが天の家です。

地上での人生には、涙もあります。
病も、別れも、失敗もあります。
けれど天の家では、すべてが新しくされます。
黙示録21章には、こう書かれています。

「神は彼らの目から涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。」

それは、神がすべての悲しみを抱きしめて、
「もう大丈夫」と言ってくださる場所。
愛する人が今、そこに迎えられている――
それが私たちの慰めであり、希望です。


4.心を騒がせてはならない

イエスの言葉「心を騒がせてはならない」は、
単に「泣いてはいけない」「強くあれ」という意味ではありません。
むしろ、「あなたの悲しみを、私に委ねなさい」という優しい招きです。

悲しみを抑えつけるのではなく、
イエスの胸の中にそのまま抱かれてよいのです。
詩篇23篇もこう歌っています。

「主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
たとい死の陰の谷を歩むとも、
わたしはわざわいを恐れません。
あなたが私と共におられるからです。」

涙は、信仰の欠如ではありません。
むしろ、愛の深さの証拠です。
愛する者を失って涙する――
その涙を、神は見ておられます。
そしてその涙を通して、
神はもう一度、希望を芽生えさせてくださるのです。


5.残された者の使命 ― 生きること

昇天者記念礼拝は、亡くなった方を偲ぶ日であると同時に、
「残された私たちがどう生きるか」を考える日でもあります。

愛する方々が残してくださった信仰、思い出、優しさ――
それを受け継いで、私たちは地上での旅を続けます。

たとえば、いつも人の話をよく聞いてくれたあの方、
困っている人をそっと助けたあの方。
そうした愛の姿を思い出すたびに、
神がその方を通して語っておられたことを思います。

「あなたも、光の子として歩みなさい。」

昇天者は、“私たちの先輩”であり、
天から祈りをもって私たちを見守っている存在です。
だからこそ、私たちもこの地上で、
“愛に生きる”という信仰のバトンをつなぎたいのです。


6.教会という「もう一つの家族」

この礼拝に初めて、あるいは久しぶりに来られた方もいるでしょう。
もしかしたら、「教会って何をするところなんだろう?」と
少し緊張しておられるかもしれません。

教会とは、聖書の勉強をする場所でもありますが、
何よりも、“悲しみを一人で抱えなくてよい場所”です。

ここには、誰かの痛みに寄り添う人たちがいます。
涙を流した人も、祈りの中で立ち上がった人もいます。
だから、どうぞ安心してください。
この場所は、神の愛でつながる「もう一つの家族」です。

もし今日、あなたが心のどこかに痛みを抱えているなら、
そのままでいいのです。
神はその痛みの中におられ、
あなたの名を呼んでくださいます。


7.再会の希望 ― 「また会いましょう」

「さようなら」という言葉は、
この地上ではよく使われます。
けれど、信仰者にとって本当の意味では“終わりの言葉”ではありません。

英語で「Good-bye」はもともと「God be with you」――
「神があなたと共にありますように」という祈りの言葉でした。
つまり、「さようなら」は「また神のもとで会いましょう」という信仰の挨拶なのです。

イエスが約束された「父の家」には、
たくさんの“住まい”があります。
そこにはあなたの大切な人もいて、
あなたのための部屋もすでに用意されています。

だから、別れは一時のこと。
信仰の旅の果てに、私たちは再び出会います。
もう涙も、病も、争いもない、
神の愛だけが満ちあふれるところで。


8.悲しみを超えて ― 今を生きる勇気

ある女性の話をします。
ご主人を突然亡くされ、
何年も教会に足を運ぶことができませんでした。

けれど、ある年の昇天者記念礼拝で、
久しぶりに教会に来られました。
礼拝の中で賛美歌を歌っているとき、
涙が止まらなかったそうです。

「でも、その涙は悲しい涙ではなく、
“あの人は今、神さまの家で笑っている”という確信の涙でした」と語ってくださいました。

それ以来、その方は毎週教会に来て、
花を生け、笑顔で迎える奉仕をするようになりました。

神は、悲しみを癒しに変えるお方です。
死を絶望の終わりにせず、
“新しい始まり”に変えるお方です。


9.天の家に続く道

では、私たちはどうすればその「父の家」に行けるのでしょうか?
イエスは続けてこう言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、誰も父のもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

イエス・キリストは、天と地をつなぐ“道”です。
十字架の死と復活を通して、
私たちの罪の壁を取り除き、
神の家への扉を開いてくださいました。

だから、どんな過去を持つ人も、
どんな弱さを抱える人も、
「主よ、私を覚えてください」と祈るなら、
神はその人を抱きしめてくださいます。


10.結び ― 父の家で、また会いましょう

今日、私たちはそれぞれの愛する人を思いながら、
この礼拝に集いました。

彼らの人生を思い返すとき、
私たちは神の恵みの深さに気づかされます。
そして、再び会う日の希望を思い起こします。

この地上の旅は、いつか終わります。
でも、それは終わりではありません。
神の家での“新しい生活”の始まりです。

だから、今日の礼拝は「さようなら」ではなく、
**「また会いましょう」**という信仰の言葉で締めくくりたいのです。

「主はわたしの羊飼い。
いのちの限り、主の恵みといつくしみが私を追ってくる。
わたしはいつまでも主の家に住むであろう。」(詩篇23:6)

天の家では、愛する方々が私たちを待っています。
そしてイエスが言われるのです。

「あなたの部屋は、もうできています。ようこそ、おかえりなさい。」

その日まで、私たちは地上で、
愛をもって歩み続けましょう。


🕊️ 祈り

天の父なる神さま、
あなたの愛する子どもたちを、今日、思い起こします。
それぞれの生涯を導き、今、あなたのもとに迎えてくださったことを感謝します。

どうか残された私たちが、
悲しみの中でも希望を失わず、
信仰と愛をもって歩み続けることができますように。

そして、いつの日か天の家で、
愛する方々と再び喜びのうちに会うことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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