申命記第14章22~29節「イスラエルの収穫感謝祭」

収穫感謝礼拝がこども園でも行われました。イスラエルでも三大祭があり、そのいずれも「収穫感謝礼拝」ということができます。ユダヤ教の暦の正月。「過越し祭~初穂の祭り~除酵祭」の一連は春に催行され、大麦の収穫に合わせて行われました。キリスト教のイースターの時期です。次にその50日後の初夏に行われる、七週の祭り(刈り入れの祭り)は小麦の収穫感謝祭です。キリスト教のペンテコステの時期にあたります。また、ブドウをはじめとする実りの秋の時期に行われるのが仮庵の祭りです(レビ記23章、申命記16章)。貨幣経済が十分に発達していない古代社会においては、献金のかわりに、この収穫物の十分の一がささげられていました。そして、本日、皆さんとともに考えたいのが、この「十分の一のささげ物」の使い道についてです。現代の教会の多くは「十分の一献金」を励行している所は多いのですが、その使途について言及しているところは少ないように思います。あくまで、三年に一度、それも礼拝する場所が遠方にある場合の例外規定はではあるのですが、収穫物を換金し、それで、ビーフ、マトン、ラム肉にワイン、はては度数の高い「濃い酒」まで買い求めて、宴会を楽しめというのです。現代において文字通り実施する必要はありませんが、私が前任地で子ども食堂をするきっかけがあたえられた聖句もこの箇所でした。神は人が建てた神殿に住むわけではなく、人の祭祀がなければ降臨できないわけでもなく、「人のささげ物がないと困る神」ではないのです。何のためのささげ物なのか…この食事の参加者を見てみましょう。まずは、レビ人、現代においては専心している牧師がそれにあたるのでしょう。そして、寄留者(新改訳では在留異国人)、孤児、寡婦たちがこのささげ物に与ります。きっと、寄留者の中には、厳しい古代社会の生活の中で収穫の十分の一をプールし、それを気前よく自分たちに振る舞う、聖書の民の姿をみて、「自分たちもこの神に信頼してみよう」と考え改宗したものもおこされたことでしょう。ここに礼拝と慈善の働き、信仰生活の喜び、祝福と宣教が一帯になった姿をみるのです。まさに本来の意味において「情けは人の為ならず」です。(マタイ25章31~46節)

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