降誕劇の話は他に多くの教会で語られていますから、割愛します。そして、あまりにも繰り返し話されているからこそ私たちは鈍くなっていることがあると思うです。イエス・キリストが生まれてすぐ飼葉桶に寝かされた意味について…。欧州のある小さな村の教会でのお話しです。毎年クリスマスに降誕劇をするのが恒例なのですが、みんなより、ことばを覚えるのが少し苦手な、でもとっても優しい男の子がいました。彼の役はセリフの少ない宿屋の主人です。マリアが産気づいて夫ヨセフが宿屋を探し回るシーンで「どこのお部屋もいっぱいですよ。隣の宿屋に言ってください」と追い返す役です。ところが、その男の子は感情移入してしまったのでしょう。「マリアさん、ヨセフさんがかわいそうだよ。誰か代わりにとまらせてあげてよ。僕のおうちに泊っていってよ~」と泣き出す始末。結局その年の降誕劇は宿屋の主人のベッドでイエス様がうまれるというはちゃめちゃな展開に、でも観劇していた村人は例年になく慰められたといいます。 伝聞ではありますが、この予定通り飼い葉桶で寝かされない降誕劇の話を聞いて、気づかされたことがあります。そう、ベツレヘムの町の宿屋数軒のうち、一軒でも、この心優しい男の子のような行動を取ればキリストは飼葉桶で生まれる必要がなかったのです。もっといえば、その日、宿屋の宿泊客のうち、一組さえも、産気づいた女性の代わりに私が部屋を出ようと申し出るものがいなかったのです。ベツレヘムはヨセフの本籍地、遠縁でも親戚はいたはずです。しかし、ただの一家族もこの夫婦に部屋を貸さなかったのです。さらにはアウグストの勅令による徴兵や徴税のための人口調査が病人や妊産婦に猶予期間を認めるような血の通った命令であればこの最悪の事態はさけられたのです。映画や劇では生まれた飼葉桶にスポットライトが当てられ、神々しい演出がなされますが、人類の救いのために神の独り子があれますときに、飼葉桶で生まれさせてしまうなんて…これは人類側の大失態です。なんと恥ずかしいことでしょう。なんと世知辛い世の中なのでしょう。でも、その世知辛い世の中で苦しむあなたを救うために神の独り子はスタート地点にこの飼葉桶を選ばれたのです。
(アイキャッチ画像はムリーリョ作『羊飼いの礼拝』1650年)
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