第一コリント書12章12~31節「キリストのからだなる教会」

説教

第一コリント書12章12~31節「キリストのからだなる教会」

聖書で教会と訳されているエクレシアという言語の意味は「集会」という意味で、使徒19:39の「議会」も同じ単語が使われていて、召された者の集まりという意味があります。「我孫子バプテスト教会」というフレーズを聞いたとき、私たちが想起するのは会堂だろうか、メンバーひとりひとりを構成する群れだろうか?あってはならないことですがたとえばの話、何らかの災害で会堂を焼失し、来週焼け跡で青空礼拝をすることになっても、神の前には我孫子バプテスト教会は「無傷」といえるし、逆に会堂が堅牢であってもメンバーが群れから外れ、礼拝が出来なくなっているならばそれは、神の前に教会が損壊し、教会は痛みを覚えているのです。もとい、私たちは教会の会員制、メンバーシップについても誤解しているのではないでしょうか?12章では教会共同体を「体」にたとえていますが、パウロは例えというより、教会は共同「体」、本当にからだなんだと言っているのです。14、18、26節等に度々でてくる「部分」と訳されいるメレーというギリシャ語は、欽定訳聖書ではそのまんま、memberと訳されています。教会員になるということを、教会員であり続けるということを、「社団・結社の構成員になる」という無機質なことのように捉えていませんか?クリスチャンのことを英語ではMember of Christ(キリストの手足)という言い回しがあるように、キリストのからだなる教会に有機的に加えられた私たち一人ひとりは部分(手足)なのです。その部分(メンバー)になるために、一つのバプテスマを受け、一つの霊をのませてもらったとさえいいます。(13節)

その理解の上で、26節まで読み進めるとき、見劣りする「部分」も大切にされていることがわかります。さらには31節までみると優れた賜物「部分」でさえ、教会では競合するものではなくて、わたしたちは、ひとつからだなのにその一部分を、礼賛したり、また逆に卑下したりすることが教会においては「場違い」だといわれます。むしろバラバラの部分が一つからだとされている不思議にただ、神様しか賛美できないのです。

サムネイルは夜の我孫子バプテスト教会 南東から撮影

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