Ⅰコリント6章1~11節「負けるが勝ちの生き方のすゝめ」

説教

パウロはコリントの教会員の間で争いがあり、民事訴訟が行われ、それが、教会の外にジャッジを求めるような「場外乱闘」の様相を呈していることに対して苦言を呈しました。ただそれは、パウロは決してこの世の司法権を認めないとか教会裁判所を設立せよとかそんなことを言いたいのではありません。私たちは天国に行ってから天使をジャッジする側に回るほどの身分を与えられるという栄光に思いを馳せつつ(一コリント5:3)、信仰の兄弟姉妹との間で争いあい、奪い合うくらいならいっそのこと負けてしまえといっています。これは招詞(マタイ5章)にある主イエスの山上の垂訓に通じるような高い倫理基準を掲げています。

こういう聖書個所をみると落ち込んでしまう人が多いのではないでしょうか?「私はこの高い倫理基準をクリアできない」と・・・。パウロは私たちを落胆させたいのではありません。

確かに、パウロは正しい行いをせよと言っています。コリントの教会の信徒は正しくない行いをしています。正しくないものは天国、神の国を相続できないと警告します。そして、9節、10節で正しくない行いリストを例示します。さらには、コリント教会の信徒の中にそのような行いをしていた、あるいはしている者がいることを指摘します。そして、ここまでくれば、この段落の文末には「正しい行いをしなければ救われない」(行為義認)と結論づけられそうなものですが、しかし、主イエスキリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされているのです。(信仰義認) という言葉で結ばれるのです。(5:11)

しかし、そうであれば、今度は救いに関係ないのなら、正しい行いをしなくてもいいのではないかという誤解を引き起こしかねません。この誤った考え方を「無律法主義」といいます。そして、それこそが、愛や寛容などの美名の名のもとにコリント教会の信徒がしてきた過ちです。「神の前に正しい行いをせよ」は、「正しい行いをしなければ救われない(天国いけない)」ではありません。また逆に「信じるだけで救われる」は「悪行三昧でも構わない」を意味しません。前者はガラテヤの教会の信徒が陥った誤りであり、後者はコリント教会が陥った誤りです。

結局のところ2000年間教会は、この二つの両極端の間違った考え方に振れてしまってきていたのです。私たち、どこかでこの信仰義認が理解できず、消化不良をおこして、この堂々巡りをしていないでしょうか?

サムネイルはカール・ハインリッヒ・ブロッホ作「山上の垂訓」です

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