マタイ27章32~56節 「神様に見捨てられたと感じる時に」

説教

マタイ27章32~56節 「神様に見捨てられたと感じる時に」

中国の故事成語に「泣いて馬謖を斬る」というのがあります。三国時代蜀の国の将軍に馬謖という優秀で重用されていた人がいました。ところが馬謖は功を焦って軍律違反をし、大敗してしまいました。当時蜀の国は人材難で馬謖を失うのは痛手でありましたが、この先たとえ戦に勝ってもルールを守らないものをのさばらしては結局国は乱れると考えた蜀の軍師諸葛孔明はやむなく馬謖を処断しました。愛しているから手心を加えるのではなくて、愛している者を失ってでももっと大事なもの(この故事の場合は正義、秩序)を守ることがあるのです。

イエス・キリストは父なる神に重用、寵愛されてきた神の独り子です。イエス・キリストも父なる神様をいつも親しみをこめて「父」と呼んでいます。しかし、今日の聖書個所でただ一か所、十字架上で苦しみの頂点に達したとき、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と悲痛な叫びを父なる神に投げかけています。この時だけイエスは父なる神を「父」とは呼ばないのです。この叫びは、キリストの救いが成就しなければ、全ての人が神の正しい審判を前にして本来叫ばなければならない叫びでした。神の子イエスキリストは、この瞬間、神の子の身分をすてて、100%人として全人類の罪を背負って、「父なる神との断絶」という役回りですら身代わりになってくださったのです。この時、父なる神も泣いておられたことでしょう。まさしく「泣いてイエスを斬る」したのです。

私たちキリスト者は自身について辛いことが続くと、そうではないと頭でわかっていても神様から見捨てられたように錯覚することがあります。しかし、そんな時こそキリストのこの十字架上での叫びを思い出すべきでしょう。イエスは父なる神との断絶という役回りですら、身代わりに受けられたという事を。そして、父なる神は泣く泣く、独り子イエスと断絶してでも、独り子イエスを身代わりに差し出してでも、私たちを買い取ったのだ。そうまでして、私たちとの断絶を回避したかった、私たちを見捨てたくないとおもってくださったのだという事を。

※サムネイルは有名なピーテル・パウル・ルーベンス作「十字架降架」児童文学で有名なフランダースの犬の主人公少年ネロは最後にこの絵を見てパトラッシュとともに召天する。

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