イザヤ書2章1~5節「ニューヨーク国連本部に掲げられた聖書の言葉」

イザヤの壁 説教
イザヤの壁

イザヤ書2章1~5節「ニューヨーク国連本部に掲げられた聖書の言葉」

8月第一日曜は日本の教会の多くで平和聖日として平和について考える礼拝を行っています。私たちもそれに倣って、広島原爆忌の朝にそのことについて考えます。ニューヨークの国連本部前の広場に「イザヤの壁」という石碑が建っています。(当ページ上の写真参照 著作権はグーグルストリートビュー)

そこにはイザヤ書2章4節が記されています。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

また、その「剣を鋤の刃へ」というタイトルの像が別の経緯で国連本部の庭に寄贈されています

※引用先は国連本部のホームページ

まさに理想であります。平和聖日にこの箇所からキリスト者の非暴力、非武装を語った説教がいかに多いことか…しかし、そこに私は虚しさを感じるのです。この像を寄贈した国はソ連、(現在のロシア)であること。そして、この像を創った社会主義リアリズムの著名な彫刻家エフゲニー・ヴチェティチの像で最大の作品がウクライナの首都キーウにある「母なる祖国像」であり、ほんの3日その像からソ連の国章が削り取られるというのがニュースがあったばかりだからです。

ウクライナの「祖国の母」像、盾の国章をソ連からウクライナのものへ - BBCニュース
旧ソ連時代にウクライナの首都キーウに建てられた巨大な「祖国の母」像から、ソ連の国章を外す作業が8月1日に終わった。続いて、ウクライナのものに取り換える作業が行われる。

彼らの理想が間違っていたのでしょうか?いいえ、ただ、その理想を実現する過程においてイザヤ書2章1~3節にあるように神を認めその前に頭を垂れるようになってはじめて実現するのです。

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。

そして、剣を鋤の刃にするという一見夢物語にみえるみ言葉が実現するのはいつなのかはイザヤ書2章の2節にはっきりと書かれています。終わりの日です。キリスト再臨のときであります。

同じような終わりの日にどのような状態になるかをイザヤ書11章6~11節に次のように書かれています。

狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。 その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。

そう、イザヤ書2章4節の剣を鋤の刃へというスローガンはスローガンとしては素晴らしいですが、「直ちに今、現代にいきるキリスト者に実行にうつせ」と命じられているみ言葉ではありません。それは、乳飲み子が毒蛇の穴で戯れるのを放置するような行為、幼子が蝮の巣の中に手を入れるのを容認する行為、それこそ保護責任者としてなすべき警戒を行はないことであり、逆に罪にすらなりえることなのです。

しかし、イザヤ書11章にあるようにその日(主イエスの来臨の時)の暁には、その一切警戒心、猜疑心を持たなくてもよい、周囲からお花畑と馬鹿にされるくらいなありえないような平安がくる、その日が必ず来ることを私たちキリスト者は希望をもっているのです。ある意味キリスト者は神様に希望を置いたこの世で最も楽天主義者、理想主義者ともいえるでしょう。

同時にローマ書3章10~18節で聖書は現在の人間の状態を次のように教えています。

「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」

人間が抱える罪、原罪は人間の独力ではもはやどうにも解決のしようがなく、いかなる国内政治にしろ国際政治にしろいかなる統治機構を構築しようとも解決できる問題ではないのです。

その意味ではキリスト者はこの世で最も人間に絶望した厭世主義、現実主義者といえるでしょう。

人は人類に正しく絶望し、また神に対して正しく希望を置かねばなりません。

神なし、キリストなしでヒューマニズムに基づいて平和を構築しようとするならばその「平和教」は現代のバベルの塔になりかねないことを肝に命じてキリストの平和を求めていきたいと思います。

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