マタイ28章16~20節「宣教する教会」

説教

マタイ28章16~20節「宣教する教会」

今日のテキストは大宣教命令と言い慣わされているものです。もっとも「命令」という響きが窮屈な気がしますが、英語ではGreat Commission 「大いなる委任」 と言われるもので私たちキリスト者に託された使命と換言することもできるでしょう。招詞

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(ヨハネの福音書 14章15、16節)

にあるように、イエスを主とし、自身をキリストの僕(しもべ)と捉え、キリストを愛しているのなら、それは理想的ななりたい姿でしょうし、そうでないなら、束縛と感じられるかもしれません。いずれにせよ、いやいや強制される類のものではありません。

さて、そんな大宣教命令、キリスト者であれば当然従うべき命令と言いたいところですが、だれもそんな偉そうに言えたものではないのです。17節には、実に驚くべきことが書かれています。「疑う者もいた。」と、実にイエス様の直参の弟子である使徒たちでさえ、復活の主を見てもなお疑う者が(複数)いたのです。

もっとも救い主キリストのよみがえりは再現性のないことですから、歴史を紡ぐ神様にとってもたった一回の出来事ですから、古代の人にとっても信じがたいことだったのでしょう。また、古代の人だからと言って復活を非理性的に、妄信的にしんじていたわけではないことの証左ともいえます。

人が死んで復活するなんて、これを信じることができるとしたらそれこそ聖霊の働きによるほかないのです。

天と地の一切の権能を持った神の独り子がキリストが、歴史上たった一度あなたのために復活されて、あなたを主人公にした物語を紡ぐために命をかけてあなたを選び、あなたをスカウトしたのです。

すべての民をキリストの弟子としなさいとあります。直訳すればあらゆる民族を素材としてキリストの弟子を作れとおっしゃっています。これは、キリスト教国の風習をサルマネしなさいという意味ではありません。あなた自身が経験した「神様に召されて人生観を大転換させられ、キリストを主として生きるという出来事」をそれぞれ遣わされた地において経験する者を起こさせよというのです。

イエス様はいつも共にいてくださいます。教会がホームです。そして、主日礼拝が終わるたびに私たちは宣教のためにそれぞれの任地に「行きなさい」といわれ派遣されます。

主日礼拝のために来るとき、「ただいま」と言えるような教会、そして、礼拝が終わって各々が各々の地に遣わされるときに「いってきます」といえるような教会、そんな教会をモットーとしていければとねがうものであります。

 

サムネイルはレンブラント作「キリストの昇天」

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