説教題の「無知の知」はソクラテスの有名な言葉です。第一コリント書8章の2節はそのソクラテスの無知の知を想起させます。現代において、聖書を読む中で何かを想起させるような言い回しがあっても、大概は聖書が元ネタでその聖書から影響を受けたものだったりすることが多いのですが、この場合は別です。新約聖書は紀元1世紀にできましたが、ソクラテスは紀元前5世紀の人。しかもギリシャ人ですから、読者であったコリントの教会の人にとっても、「地元の有名人」「お国自慢できる歴史上の人物」だったはずで、だからこそパウロはこんな言い回しをしたのかもしれません。
第一コリント書8章からは10章まで偶像に対してどう向き合うべきかパウロの見解がのべられています。 4節から回答していますが、おそらく、パウロに寄せられた質問は次のようなものだったのでしょう。
Q、私たちの町の肉屋で売っている肉は大体、ギリシャ宗教の神殿から卸されたものですが、そういう肉を信仰者は食べてよいかどうか、教会でも意見が分かれております。使徒様の指示を仰ぐ次第です。
そして、偶像問題に関する知識は順をおって次の(1)~(4)のように深まっていったいったことでしょう。
(1)信者になる前は偶像礼拝が罪であることすら知らなかったでしょう。
(2)聖書の神様を信じることによって、偶像礼拝が人間の尊厳を貶め、神様を悲しませる行為であるいことを知ります。
(3)次に4~6節にあるように聖書の神以外、神様は存在しないので、クリスチャンは偶像礼拝の罪を侵す余地が原則ないことを知ります。
(4)たとえ偶像礼拝でなくても(3)までの知識をもっている者が(2)までの知識までしかない者の前で、偶像に捧げた肉をたべる行為が横行するなら「前者の信仰の良心を傷つけるという罪」になるから配慮するようにとパウロは注意します。
(5)しかし、もう一歩話を前に進めましょう。(2)も知識、(3)も知識なら、(4)もまた知識であって、(4)をマニュアル化するのならそれもまた、裁きの道具にしかならないのです。2節にある通り、マニュアル通りの知識ではなくて、愛をもって、他の信仰者を建てあげましょう。あなたの隣のあなたと違う見解を持っているクリスチャンのためにも、キリストは十字架にかかって死んでくださったのです。(11節)
本日のテキストは、偶像に捧げた肉の問題ではなく、お墓について、お酒について、煙草について、焼香について現代のキリスト者の信仰生活に大いに適用すべきことです。神を愛し、人を愛するという視点から各々が考えて模索する営為こそ神様が喜んでくださることでしょう。
サムネイルはルイ・ダビッド画「ソクラテスの死」。
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