本日の招詞Ⅰコリ11章27~28節は聖餐式でよく朗読される箇所ですが、果して本当に、招きのことばとして私たち正しく受け取れているでしょうか?
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりするものは、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
同章18節を見ると、年齢か出身か所得か政治信条等何かしら属性によるインナーサークルが出来かかっていたようです。そして、教会は多様性に満ちたところであって、決して同じ属性・性質のばかりの金太郎飴を作るところではありませんから、立場がある程度違うこともあったようです(同章19節)。それは教えの違いによる分裂分派ではありませんから、パウロはそれを容認しています。しかし、それ(年齢・出身・所得・政見等の属性)が、聖餐式の受ける時の区分になってしまうことは神の教会をみくびり、聖餐式の体をなしていないとパウロは叱責しています(同章22節)。当時の教会は儀式としての聖餐式と教会員の懇親の場である愛餐会は未分化でした。さらに言えば、愛餐会は食事の持ち寄りではあったのですが、資産家・高所得の者が多くをだして貧しい者の分まで賄う「炊き出し」に近い物だったようです。
ところが、一部の高所得者だけが別に集まって高い会費で高級グルメを味わうというのを教会の聖餐式・愛餐会の名のもとに行い、貧者を締め出すことになっていたようなのです。27節の「ふさわしくない」と言っているのは聖餐式を受ける個々人が品行方正かどうかをとうているのではなくて、聖餐式を「高所得特別会員限定グルメ倶楽部」にしてしまっているあり様を「ふさわしくない」といっているのであり、そんなフルコースの美食会にするくらいなら、教会ではパンと杯だけで最小限度にして定式化して聖餐式という「儀式」にしてしまいなさい(23~26)。とパウロはいったのです。 天国では、性別、所得、出身、政治信条などによってイエス様と食事をする会場が分かれているなんていうことは、ありえません。そのことを体現するために、聖餐式は主を信じバプテスマを受けた者が区別なく一同を会して執行することに意味があるのです。この世で、嫌いな人と無理に長時間食事をして同調して会話を会わせろなんてパウロさんもいいません。でもだからこそ、キリスト・イエスを中心にする聖餐式だけは、聖餐式こそは一致して与らないかという勧めは余計に重く私に響くのです。
サムネイルはルイ・ル・ナン作「農民の食事」(1642年)です。
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