第一コリント書13章1~13節「愛の章 結婚式で読まれる章節です」
第一コリント書13章は愛の章とも呼ばれ、キリスト教式の結婚式で必ずと言っていいほど読まれる箇所です。この箇所を読み愛の素晴らしさを解き、愛を礼賛し、愛に関する例話を挟みこめば人々のこころをうつ説教の一丁上がり・・・なのかもしれません。しかし、説教の第一義を人を感動させることではなくて、神の言葉である聖書の解き明かしであるとするならば説教者はその「誘惑」を克服すべきでしょう。聖書はコンテキストが大事です。前章の前半では天賦の才、神様か下さった霊的な賜物について語られ、前章の後半では教会において一部の秀才、天才の賜物が持てはやされていることが、キリストのからだの一体性を失わさせることを警告しています。また、後章14章では人前で話す異言、預言の賜物が教会の益になるようにと注意しています。つまり、パウロは終始教会における霊的な賜物について話しており、その間に愛の章が挟まれているのです。また13章の愛は男女の愛を表すエロスではなくて、神の愛を表すアガペーという単語が使われています。7章でやもめや孤児、未婚者について触れていたので、結婚に関する愛を解きたければパウロは7章の前後で語っていたはずです。この箇所は実は愛そのものを語りたかったのではなくて、、教会の中で信仰の強者の目立つ才能が持てはやされる傾向があり、パウロはその傾向に釘を指したかったのです。たとえば、4節で
「愛は忍耐強く、愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めない。いらだたず、恨みを抱かない。」
というのは、愛を定義したくて、愛を礼賛したくて、いったことではなくて、コリントの教会が能力主義に陥り、こらえ性がなく、無慈悲で、嫉妬深く、自慢しいで、傲慢で、無礼で、利己的で、いらちで、恨みがましいところがあったから、パウロがその反対のことをいったまでのことなのです。でも、がっかりしないで下さい。本当に凄いことは、私たち才能はないのに、私たちには愛もないのに、才能があっても才能がない人への「どうしてこんなこともできないんだ」といういらだちしか起こさない者なのに、そんな者がキリストに愛され、大事にされキリストのからだにある教会の一部分とされることなのです。私たちから神への愛に先んじて、神から私たちへの愛があるのです。
※サムネイルはヤン・ステーン作『村の結婚』
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