ルカの福音書5章33~39節 新しいぶどう酒は新しい革袋に
- A ファリサイ派 断食する 悔い改めない 律法順守という行いによる救い
- B バプテスマのヨハネの弟子 断食する 悔い改める 回心による信仰による救い
- C イエスの弟子 断食しない 悔い改める 回心による信仰のみによる救い
人はものごとを理解しやすくするため、単純化、類型化しようとします。33節に出てくる人々もそうでした。断食の有無でAとBを同じグループとし、Cは異質なものとしました。後にエペソ書で教会は「キリストの花嫁」とたとえられることも予期してのことでしょうか、自身を花婿にたとえ、婚礼の席で花婿を前にして断食をするほど野暮なことはないとおっしゃいます。背景に人々の中で前の段落で徴税人マタイがイエス様の弟子になったこととイエス様が徴税人と食事をしたことが当時のユダヤ教の道徳基準から逸脱したものであったのでしょう。説教題にもある、「新しいぶどうしゅはあたらしい革袋に」というのは、神様の救いの判断基準、道徳基準として全く新しい回心による救いが示されている中で、律法順守による行いによる救いという古いユダヤ教の枠組みの中で、イエス様のしていることを捉えようとすることはまさに弥縫策(びほうさく)であって、抜本的に新しい価値観にパラダイムシフトをする必要があることをイエス様は訴えておられます。 翻って私たちはどうでしょうか、教会らしさ、クリスチャンらしさというのが、かつて、イエス様が批判されたユダヤ教の旧弊と同じことになってはいないでしょうか?イエス様は十字架にかかってまで、救いには回心して信じること以外何も求めておられないのに、私たちがクリスチャンになるための条件に、我孫子教会の仲間になるための条件に、回心すること以外に我孫子教会らしさをもとめてしまってはいないでしょうか。そのように救いにプラスアルファしてしまうことこそ、キリストの提示された救い「らしくないこと」を私たちクリスチャン自身がキリストの福音を狭くしてしまっっていることはないか自己吟味する必要があるでしょう。
※弥縫策 一時的にとりつくろうはかりごとや策略、一時しのぎの対策などを意味する言葉
サムネイルは「イチジク、バスケット、カボチャ、パン、ワイン袋とナイフのある静物」ルイス・メレンデス画
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