列王記下6章18~31節「聖書が語る戦争の悲惨さと神の恩寵」

説教
京橋駅南口

聖書が語る戦争の悲惨さと神の恩寵

今から77年前の8月14日大阪砲兵工廠を目標とした京橋駅空襲があり500人から600人が犠牲になったといわれます。今も京橋駅南口に慰霊碑があり、今日も慰霊祭が行われていることでしょう。終戦記念日の一日前です。あと一日戦争が早く終われば助かった命があるのです。今もウクライナをはじめ、世界中で紛争、戦争があり、今日も多くの人がなくなっています。一日も早い戦争の終結を祈ります。本日の聖書箇所6:18~23にはアッシリア軍を北イスラエル軍が捕虜にしたにも関わらず、敵に塩を送るような所作で食事を与えて本国に送り返すという、紀元前の出来事なのに近代やっと確立したジュネーブ条約の捕虜の取り扱いを彷彿とさせるような理想主義、人道主義がみられます。

しかし、そんな戦争における理想主義が書かれている同じページなのに次の段落の24~31節には戦争のもっと悲惨な現実です。戦争による攻囲戦、兵糧攻めにともなく、飢餓状態、その飢餓状態の極限状態において行われたカニバリズム(人肉食)が記されているのです。古代の話、大陸の話と片づけれるものではなく、別段中東だけが特段ひどかった訳ではなく、わが国でも、戦国時代の鳥取城の戦いに同じような記録が残されています。モーセはこの出来事のはるか昔にイスラエルがこのような状態に陥ることをレビ記26章29節で既に預言していました。聖い書物と書いて、「聖書」といいますが、実際は人間のおどろおどろしい、蛮行が遠慮なく書かれている書物なのです。

戦争と平和に関する政治的志向の違いは左右の対立とともに、アイデアリズム(理想主義)であるかリアリズム(現実主義)であるかの違いであるともいえるでしょう。平和主義の一つの理想としての非武装中立論があり、現実の国際社会の理論として核抑止論・相互確証破壊があります。信仰者が見るが理想主義で不信仰者のみる世界が現実主義なんていうような薄っぺらいものではないのです。聖書がたった一頁に最高の理想主義と最低で非人道主義的で残酷な戦争のリアルを対比させるように人間というのはこのような矛盾した行いを時を同じくして同じ場所で起こしてしまうほど、良い方にも悪い方にも転がってしまう・・・これが、本当に本当の人間の人類史のリアルです。

本来キリスト者の世界観はこの世の現実主義者より、現実主義であり、この世のどんな理想主義者よりも、理想主義で重厚なものなのです。私たちは、ローマ書3章10~18節に書かれているような聖書がしめすただしい人間観を持ち得ているでしょうか?もっと正しく人間の罪深さに汚さに正しく「絶望」しているでしょうか?しかし、その一方で徹底的に無価値で徹底的に神に反逆した私たち人間を、なおも愛しに(Ⅰヨハネ4:9)、なおも救い出す価値があると宣言し、神の独り子イエス・キリストの命をもって贖いだす価値があるとされ、すでに救いが成就されている究極の理想主義にこそに私たちは正しく「希望」をおいているでしょうか?

サムネイルは京橋駅南口にある京橋空襲慰霊碑(グーグルマップより)

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