今日から、しばらくはヨハネの福音書の連続講解説教をしてまいります。同書の記者はイエスの弟子のヨハネです。新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がありますが、ヨハネ以外の3つの福音書は共観福音書とよばれ、ヨハネだけが、他の福音書と比較して、重複記事も少なく、独自の視点を持っています。また、書き出しも非常に独特です。
キリストのことを伝えたいのに、そのキリストをあえて「ことば」といいかえて
「はじめにことばがあった」
と意味深なことをいうのです。この「ことば」とはギリシャのロゴスであって、その意味するところは
言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、イデア、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮…etc 様々な意味を含蓄する多義的な単語です。
これは例えばある人が、「神とは現世利益をもたらす存在だ」と定義し、自身は商売繁盛を願っていて、信心の見返りにその利益をえようとしているときに、神がその人にそもそも拝金主義からの解放をもって救済を与えようとしていても、その人が「神とは現世利益をもたらす存在だ」と定義している限り、神を神と認めず、救済をえることもないでしょう。神がどんなに大きくても、救いがどんなにひろくても、求める人自身が神や救いに対して狭い定義をしている限り、救いは狭いままになってしまいます。ヨハネの福音書の記者ヨハネは古代教会ではテオトコス(神学者・神のみ旨の理解する人)のヨハネとあだ名されていました。福音書の冒頭、イエス・キリストのことをあえて多義的なロゴスということばに言い換えることによって、読者の神に対する先入観によって神概念が狭められることのないよう、読者のイメージするキリスト像よりも大きなキリストを伝え、読者が思っているよりも広く豊かな救いを提供しようと著者はしています。
因みにヨハネの福音書1章は、三位一体や、コロサイ書1章でパウロの指摘している御子キリストによる創造や、当時のギリシャ人に通底する霊肉二元論ではとても承服できない、目に見えない霊的な存在である神が物質、肉体を摂取したという「受肉」について触れられていて、それこそ、当時の人間の固定概念を超越した神様像、キリスト像を提示するためにヨハネはキリストを「ことば(ロゴス)」という言い回しをしています。
そして、そうまでして、工夫し、苦労してこの福音書を書いた著者ヨハネの目的はこのヨハネの福音書の終わりの方で語られています。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 ヨハネによる福音書 20章31節
※サムネイルはラファエロ画「ベルヴェデーレの聖母」
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