ルカの福音書6章20~26節 改題「イエス様は説教中ピエンを連呼する!」 原題「さいわいか?わざわいか?」 ~平地の説教~
本日のテキストはマタイ5章から始まるイエス様の最も有名な説教「山上の説教」と対比して17節から「平地の説教」と言われることもがあります。両者の違いを明確化させる神学者もいれば、後者のそれは前者を著者ルカが要約したものだという神学者もいます。
いずれにせよ、イエス様は公生涯の中で説教をたった2回だけ語ったわけではなく、何度も同様の主旨のことを語り、それが別々の福音書に記録されたと言えるでしょう。2つの説教を比べてみます。
山上では冒頭「心の貧しい者」となっていますが平地ではダイレクトに「貧しい者」となっています。山上に比べて平地では「今」泣いているもの、「今」飢えているもの等今が強調されています。山上では8つの幸いな者が語られ、平地では3つの幸いな者だけではなくて、3つの不幸な者が対比され、その後、行動の指針「愛敵」のモットーが語られます。ちなみに、この「不幸である」は、原文では各文章の冒頭にきており、「ウエー」と発音し、意味は「ウエー」です。意味のない、間投詞、感嘆詞です。「ウエーン」「エーンエーン」あるいは今風に「ピエン」と訳してもいいのかもしれません。
また、山上では神の国は三人称「その人たちのもの」ですが、平地では聞き手である「あなたがたのもの」だと断言しています。 最大の違いは山上では聞き手が信者、未信者も含めた群衆であったのに比較して、平地では信者である弟子たちに限定されているのです。そして、ルカの福音書自身がイエス様がどのようなお方で、イエスの弟子であるクリスチャンがどういった行動原理で動く人たちかをテオフィロに紹介するために書かれた手紙なのです。 もし27節から続く、敵を愛せよとの「愛敵の教え」を守らなければ天国にいけないのであれば私たちは誰一人天国にいけません。しかし、自分にできないと自分の卑屈さ、貧しさに涙するなら、キリストの十字架を見たときに気づくはずです。そのようなもののために愛敵の行動指針を十字架への歩みの中で貫徹されたのがイエス様であるということを。そして、気づいた瞬間、信じた瞬間、まだ何もなしていないのに既に天国へいけることが約束されている事実に驚き、喜びにみたされることを。そして、そのイエス様の愛と恵みと救いの大きさに「絆(ほだ)された」人があるいは愛敵の歩みへの聖霊に導かれて歩を進めることになるのです。
※サムネイルは山上の垂訓教会 筆者撮影
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