ヨハネの福音書2章1~12「自己嫌悪に陥る人の為の福音」
一般に「カナの婚礼」と呼ばれる聖書箇所です。イエス様が初めて奇跡を行った出来事であり、また、イエスの母マリアとイエス様が会話する珍しい箇所です。
おそらく、イエスの母マリアの親戚の結婚式で、マリアが婚宴の責任者にならねばならない役回りだったのでしょう。しかし、その結婚する二人もマリアもおそらく経済的理由からでしょう。十分にもてなすだけのぶどう酒を用意することができませんでした。また、死別したのでしょう。既にマリアの夫ヨセフの姿はありません。ですから、大工の息子として生まれ、かつては神童として扱われていたであろう長男イエスに母マリアが頼ってしまっている姿が描かれています。
しかし、イエス様はその母マリアの助けを求める声に対して、「私の時はまだ来ていない」といって退けます。イエス様の「その時」というのはヨハネの福音書12章27~28節でも
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 ヨハネ福音書 12章27~28節
とおっしゃっていますが、まさに神の小羊として、人類の罪を背負って、十字架にかかり救いを成就する時を指して、「その時」と言っています。また、イエス様はこの地上で多くの奇跡、しるしを行いましたが、そのしるしは決して見世物や自分の利益のためにすきなように使う魔法としては行使なさいませんでした。かといって、杓子定規に母マリアの訴えを無視し、恥をかかせるようなこともなさいませんでした。人の子として母の窮地を助けたい、一方で奇跡はあくまで来るべき「その時」のための「しるし」としてしか使わない。また、しるしを行うということは、その瞬間から、ファリサイ人、律法学者からマークされて、論難を仕掛けられ、ねたまれ、やがて命を狙われることも意味しました。そのすべてを飲み込んで、その全てを二重写し、三重写しにして、奇跡が行われたのです。
福音書著者ヨハネは水をぶどう酒に変えたこの最初の奇跡のうち、水でもなくぶどう酒でもなく、水の入っていた入れ物の用途とその容量に着目しました。私はここに著者の伝えたい意図を感じます。清め用に使う水瓶の中の水をぶどう酒に変える事によって、本当に私たちがイエスキリストの血によって、どんな水でも取れない罪の汚れを白くするしるしとしての奇跡を行われたのです。そしてその分量は400l~500lという婚宴で飲むためだけでは使い切れないほどの余りある量です。
そう、自分のこころの中の汚さに悩む者、どうやっても心の中を清くすることはできないと悩む人こそ、そして、自分は婚宴の賓客としては扱われないと絶望し自己嫌悪していたものこそ、カナの婚礼での最初の奇跡を、しるしとして受け取りイエスを主と信じたのです。
※サムネイルはジュセッペ・クレスピ作『カナの婚礼』です。
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