ヨハネ福音書1章35~51節「どんな人がキリストの弟子になったのか?」

説教

ヨハネ福音書1章35~51節「どんな人がキリストの弟子になったのか?」

ヨハネの福音書は読書の既成概念にとらわれず、福音書記者が伝えたい、キリストを信じてもらおうとして筆を進めています。そのために洗礼者ヨハネによるイエス・キリストの端的な紹介「神の小羊」を引用します。

ヨハネの福音書1章35節~はそのキリストの弟子になった人が書かれています。どんな人がキリストの弟子になったのでしょうか?

キリストの弟子になる、クリスチャンになる人に何かしら傾向のようなものがあるのでしょうか?今日のテキストから考えてみましょう。
 第一の傾向 謙虚な人?

洗礼者ヨハネの弟子の中から、師匠である洗礼者ヨハネのことばを聞いて、弟子になった者がいたことを記しています。2人のうちひとりは名前が明かされているのでアンデレだとわかります。もうひとりは、この福音書を書いたヨハネ自身のことでしょう。マルコ1:16~20などをみると、最初に弟子になった4人はいずれも漁師で、ヨハネの子ペテロとアンデレ、そして、ゼベダイの子ヤコブとヨハネであると記載されていることから類推できます。

さて、洗礼者ヨハネの弟子だった人から、イエス様の弟子に移った人がいるということから、クリスチャンになる人の特徴として、先生者ヨハネの運動の特徴である「神様の前に自分は救われる価値のない罪びとだと悔い改める人」こそ、クリスチャンになる人と言えるのかもしれません。

 第二の傾向親類縁者にクリスチャンがいる?

シモン・ペテロはアンデレと血のつながった兄弟であり、ヤコブとヨハネも兄弟であったことからキリストの弟子(クリスチャンになる人)は親類、身近な人にクリスチャンがいることが多いということは、傾向としていえるのかもしれません。

 傾向を度外視してなおも広がる神様の恵み

アンデレは今風にいえばインフルエンサーなのでしょう。同郷のフィリポにも弟子になるように誘います。 そして、今日のテキストで一番不思議なのはナタナエルです。ただ、フィリポを通じて主イエス様からの覚えがめでたかっただけで、主イエスのことを「ラビ」「神の子」「イスラエルの王」と大絶賛します。もっと言えば、ナタナエルが少し前にイチジクの木のところにいたことをあてただけで、イエス様も心酔する始末です。これって、占い師に「ズバリいうわよ!あなたは過去にこんな経験をしたことがあるでしょ?!」と占い師が知りえないはずの過去の経歴をズバリ当てられて、それでその占い師にハマってしまう人と大して変わらない信じ方のようにすらみえます。正統なキリスト教徒からすればそれってどうなの?とモノ申したくなる怪しい信仰です。(いちじくの木に他の聖書個所から霊的な意味を見出そうとする解釈もありますが、ここでは私はその解釈をとりません。)しかし、彼の信仰には裏表がなく、イエス様はその信仰を信じるきっかけとしては寛容に受け入れてヨシとしてくださったのです。

先週とは逆説的な結論になるのですが、福音書記者ヨハネは読者に正しいキリスト像を捉えてほしいとねがっています。が、浅はかなキリスト理解であったら、主イエスは私たちを門前払いするのか?受け入れてくださらないのか?といえば、そんなことはありません。私たちの浅はかな理解のままの私たちを受け入れて下さるのです。霊的洞察力が乏しい人であってもキリストにすがるなら、その人をもキリストの弟子としてくださるのです。今日のお話の中で「悔い改める謙虚さがあるなら」とか、「親類縁者にクリスチャンがいるから」とか、キリストの弟子になる人、クリスチャンになるひとの傾向を探ろうとしましたが、これら上述の傾向は救われる条件ではけっしてないのです。言い古されたことですが、乏しい理解でも小さな信仰でも、「信じるだけで救われる」のです。神様の一方的な恵みによって選ばれたのです。まかりまちがっても私たちクリスチャンは「救われた我々には適性があったから救われたのだ」等とはとてもいえないのです。神の恵みに感謝。

※サムネイルはアンリピエール作「奇跡の漁り」

 

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