申命記5章12~15節「これだけは知っておきたいモーセの十戒第四戒」

説教

十戒の第四戒は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」です。安息日は旧約時代に土曜日のことで、新約においては日曜日がこれに近い意味を持ちます。しかし、そもそも「聖とする」というのはどうすることをいうのでしょうか?旧約聖書の律法の規定をみると「汚れたもの」、「清いもの」、「聖なるもの」という区別がありますが、聖なるものとするというのは、そうではない他のものから特別に取り分けるということ、聖別するという意味があります。

また、混濁すると汚れたほうに引きずられるという考え方が聖書の中に一貫しています。
(※樽いっぱいの飲用水に一滴の汚水を混ぜれば樽いっぱいの汚水になり、樽いっぱいの汚水に一滴の飲用水をまぜてもやはり樽いっぱいの汚水になるように。)

実にイエス様と対峙したユダヤ教正統派ファリサイ派のファリサイも、区別するもの、分離する者という意味なのです。

出エジプト記20章には第四戒が詳述されており、安息日は日々の仕事を休めたら礼拝する。「いけたらいくわ」という類のものではなく、その一日を礼拝をする日にして取り分けるために、残りの六日間をも管理し計画立ててはたらくことが希求されています。七分の一のために七分の六を意識する。もとい、わたしたちの余生のうち、神様からお預かりしているの命は「七分の一」でもなく、「七分の六」でもなく「七分の七」であり、全てが神様からの預かりもので、全ての差配が私たちに委ねられており、その中で七分の一を旧約時代では義務的に、安息日に新約時代の私たちは愛の応答として、主に日曜日に自主的に礼拝することが目安とされてきたのです。 同じことは献金にも言えます。その金額の多寡よりも、聖別すること、全収入の内から神様の為に捧げる分を他の分から取り分けることの方が重要な意味をもちます。第四戒はネガティブリストではなくて、ポジティブリストとして新約時代の私たちに適用するなら、「時間、お金、私たちに委ねられたものを神様に喜ばれるように管理分別せよ」といったところになるでしょう。安息日論争はイエス様によって終止符が打たれました。さらには申命記5章の規定をみれば、信者である私たちが自身の弱者から社会の管理者になる過程でこの良い戒めを習慣化することで社会全体の良化、宣教まで射程に入っている戒めであり、間違っても敢えて逆の習慣化を行うことは勧められていません。

互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ヘブライ書10章24~25節)

サムネイルはダーク・ファン・デレン作「デルフト新教会のウィレム1世の墓の側にいる家族」

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