チ。原作2話を神学してみた。ガリレオ裁判の結局のところ
第一章の主人公にして神学生のたまごラファウが第二話の最後で「地球を動かす!」といっています。これはガリレオが宗教裁判にかけられ、その時にガリレオが発したとされる、「それでも地球はまわっている」から着想が得られれていると思われます。(実際は後代の人がガリレオを持ち上げるために盛った話で、当の本人は言っていない。)日本ではこのガリレオ裁判だけが独り歩きして科学が宗教にかった日かのように喧伝されていますが、実際のところはそうではありません。
参考文献として 田中一郎氏の「ガリレオ裁判」
デーヴァソベル著「ガリレオの娘」
それとこれは手に入りにくいですが、すぐ書房の「最初のコペルニクス擁護論」
あたりを上げておきます。
まず、ガリレオ自身が熱心なカトリック教徒です。むしろ、ガリレオが戦ったのは聖書そのものというより、アリストテレス主義者といってもいいでしょう。実際聖書はどこを読んでも天動説が書いているわけでもなくそれどころか旧約聖書、ヨブ記26章5節のように
「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」
と驚くべきことにプトレマイオスやアリストテレスが生れるはるか前から、地球がなにもないところに浮いていると示唆されるような記述もあるのです。
古代ギリシャではれば世界の下には巨人アトラスがいて世界を支えていると考えて居たり、
古代インドでは大地は平面で、その大地の下には四匹の巨大な象が大地を支え、さらにその四匹の巨大な象の下にはさらに巨大なアクパーラという巨大な亀が世界を支えている…
なんて世界観が信じられていた時代に聖書はこの地球は何もないところに浮いていることを示唆していたんです。もとい、聖書はどこを読んでも天動説を主張しているわけではありません。ただ一か所だけ
ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よとどまれギブオンの上に、月よとどまれアヤロンの谷に。」日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。
とあり、ヨシュアの祈りに応えて神が太陽と月の動きをとどめ、日没を遅らせたことが述べられていて、つまり、普段は太陽と月は動いていたことが示されている、というものでした。この部分を根拠に、神学者は古代のアリストテレスやプトレマイオスの考えを当てはめ、地球は天空の中心にあり、太陽、月、惑星はすべてその廻りを回周しているという宇宙観は絶対のものであり、その他のものが現れたり、異なる動きをするはずはないと決めつけていました。
しかし、この考え方めちゃくちゃで、現代でも「太陽が沈む」、「太陽が昇る」といったりするわけです。実際は太陽が昇っているのではなく、それは観察者からの見え方をのべたにすぎず、実際には太陽は動かず、地球が自転しているだけです。であれば、上述のヨシュア記の記述も客観的な事実を述べたものではなくて、あくまで観測者であるイスラエル人からの見え方を述べたに過ぎません。原作2話P55でラファウが道中で転んで「観測者が動くと見え方が変わる」ことに気づいたのは実はガリレオがきづいた彼の聖書解釈のことでもあるのです。
ガリレオは自らの聖書解釈に基づき地動説を提唱し、対して当時の「最新科学」だったアリストテレスの世界観と渾然一体となっていたキリスト教界がガリレオの口を塞ごうとしたですが、ガリレオの聖書解釈の方が当時のカトリック教会が擁護したアリストテレスの世界観を打破したと言えるような話、科学が宗教にかったどころか、むしろ聖書の真理が当時の科学に勝ったといえば言いすぎでしょうがそんな話がガリレオ裁判なのです。
しかし、どうして、アリストテレス主義が欧州に蔓延ってしまったのでしょう。
その話は次回お話しします。
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