この方は何も悪いことをしていない、そのことを一人の犯罪人はどのようにして知ったのでしょうか。主イエス様がどのような方か、彼がもともとよく知っていたというわけではないでしょう。おそらく彼はうわさには聞いていたとしても主イエス様に会ったこともなかったのかもしれません。しかし今自分と共に十字架につけられている主イエス様がどのようなお方か知ることになりました。
その決定的な瞬間が、あの34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というお言葉だったと考えてよいと思います。十字架という想像を絶する苦しみの中でこのように祈る主イエス様に彼は、神様の前で何の罪もない方、神を心から父と呼ぶことができ、その父に自分を十字架につける者たちの罪の赦しをも願うことができる姿に、まことの神の子を見たのです。そしてその罪のないまことの神の子が、自分と同じ十字架の刑罰を受けておられる、その驚くべき事実に触れた時、そこに神への深い畏れが生じたのです。それは、神をこわがるという恐れではありません。また神の怒りや裁きを恐れるというおののきでもありません。神が本当に生きてここに、自分の目の前におられる、その生ける神と出会う畏れ・畏敬です。その神への畏れの中で彼は、それまで少しも考えていなかったこと、自分が、自分の犯した罪の当然の報いとして十字架につけられていること、つまり自分は十字架につけられて死ななければならない罪人であることに気づかされたのです。そして、その神の子であられる方にすがったのです。
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