マタイによる福音書第18章1~5節「こどもを愛されるイエス様」

幼児祝福式は欧米のキリスト教圏にはない習慣ですが、福音書の中でイエス様が子どもを愛し、祝福し、神の国は「子供のような」者たちのものであるとおっしゃられたことから、日本の教会では七五三に変わるものとして幼児祝福式が行われることが多いようです。マタイ19章中段、そしてマタイ18章3節の「子供のように」ならなければならないとは一体何をさしているのでしょうか?現代日本であれば「子供のように」「素直な」ですとか「純粋無垢な」という修飾語を無意識に補ってしまいがちですが、聖書は文脈にしたがって第一読者(書かれた当時の筆者が想定していた宛先、読者)の立場で読まれるべきです。少子高齢化社会の現代ではなくて、人口の半分が子どもで、乳幼児死亡率が極めて高く、多産多死社会の文脈で読まれるべきです。弟子たちはここまで誰が一番偉いか、誰が一番価値あるかを論じている中で主イエスが一石を投じたわけですから、その意味するところは子どもたちのような「役に立たない」「ごくつぶしの」「人数に数えられない」者というだったのです。もちろん、主イエスご自身が子どもたちをそのような認識であったわけではなくて、あえて弟子たちの認識に目線を合わせて発せられたものです。なぜ、そんな発言をされたのか?マルコ6:3にそのヒントがあります。イエス様ご自身が、母子家庭で育ち、肉体労働者で、ヤングケアラーで、「父親が誰だかわからない子」と揶揄されてこられてきたのです。主イエスが子どもを愛された。それ自体、時代にあって革命的な価値観を説いておられたのです。私たちも主に倣って、自らを神の前に卑しくし、子供や社会的弱者に目を留めるものとなりましょう。

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