クリスチャンと呼ばれるのには最低限何を知っていればよいのでしょう。キリスト教に関する神学書はごまんとあり、その教理の全体をなぞるだけでも年単位の時間を要します。もし、入信するために、その教理全体の修得が必要なのであれば、ほとんどの人がクリスチャンでいられなくなります。パウロはコリント書の2章で、使徒言行録17章の経験(アテネでの知恵を用いた伝道活動の失敗)もあって、クリスチャンになりやすくするための、うまい言い回しや理路整然とした論理、ギリシャ哲学による補足説明など、それら、一切をしなかったと告白します。つまり、余計なことは一切いわず、無駄な部分を削ぎ落した「これだけは知っておきたいキリスト教」だけを語ったのです。まるで、最近のビジネス書のようなタイトルですが、(それはおそらく、今日礼拝の中で皆で唱和した使徒信条のようなものだったでしょう)。しかし、それは単なる情報伝達ではなくて、神の霊と力とによってコリントの兄弟姉妹は信じるに達したのだと述懐します。クリスチャンになるために必要なことは「十字架の言葉」だけなのですが、それをこの世の知恵(情報)として知るのではなくて、「霊的」に知る必要があるのです。
御霊によって、神の息吹を受けたものが、その霊的理解力によって知る必要があるのです。しかし、「霊」とかスピリチャルというと、オカルトチックな意味や、霊験あらたかなという風にとらえられがちですが、そういう意味ではありません。
霊的とは人格あるものの深奥にある高次元なものを指します。
感情的、精神的、物理的、部分的に交流するという意味ではなくて、人格的に全人的に有機的に関係することを「霊的」といいます。
説明すれば説明するほど、かえってわかりにくくなるかもしれません。一例をあげましょう。例えば乳飲み子が母に抱かれているというのは、物理的には接触している、体温が伝導している、体重かかかっているということになるでしょうし、精神的には乳飲み子の空腹が満たされて精神が安定がもたらされているという解説がなりたつわけですが、
これを高次元に、全人格的に、霊的にとらえるとつまりは乳飲み子は母親に「愛されている」ということですよね。パウロがコリント書第一の2章でいいたいことはそういうことなのです。つまりは十字架の言葉、使徒信条に書かれている内容、それを信じることがクリスチャンとしての必要十分条件なのですが、情報として信じるのではなくて、まるで個人と個人がであるように、神に出会って、「十字架にイエス様がかかったことはまさに私のことを愛してくださったが故に、私の罪の為に身代わりに死んでくださったんだ。ありがたいことだ。大恩だ。」と信じること…それが神の霊の力によって信じることなのです。
また、この「霊」ということばは、息吹という意味があり、生きている私たち人間は神に息吹き込まれて、生きるものとされ(創世記2:7)るという聖書に通底する思想が流れています。パウロはイエスキリストの十字架の言葉を信じた者はみな成熟した者といい、霊の人であって、神の知恵を理解できるのだから、この世の人の評価に惑わされるなと励ましてくれています。
サムネイルはムンカーチ・ミハーイ作『ピラトの前のキリスト』
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