ヨハネの福音書4章27~42節「今日からあなたもエヴァンジェリスト」

カラッチ作「キリストとサマリアの女」 説教
カラッチ作「キリストとサマリアの女」

ヨハネの福音書4章27~42節「今日からあなたもエヴァンジェリスト」

イエス・キリストを伝える伝道者になるのに、学識や、修行が必要なのでしょうか?信じるだけで救われるキリスト教はまた、信じた者がその時から福音を伝えられるのです。サマリアの女性は信じたその時から福音を伝える者となりました。説教すること、講壇で教えを語ることを按手を受けた一部の人に限定したり、バプテスマ、聖餐式、祝祷などを按手をうけた聖職者にしか執行できないなどと聖書のどこに書いてあるでしょうか?これらは新約聖書27巻成立以降の「十二使徒の遺訓」といわれるいわゆる使徒教父文書に記されています。もちろん、低い識字率、ローマ帝国当局からの弾圧、グノーシスという異端の勃興などの中で護教のために大都市で学びと訓練を受けた者が按手を受けその按手をライセンスのようにして一定の制限を設けたのは当時の時代背景として仕方のないことで会ってそれ自体を否定するものではありません。ただ、このヨハネの福音書4章サマリアの女を見てもわかるようにキリストの福音は信じるだけでクリスチャンになれるし、信じたその日からクリスチャンになった人が周囲にキリストの福音を伝えることもできるのです。クリスチャンがイエス・キリストをご紹介することは本来は決して遠慮することや憚られることではないということをしっておいていただきたいのです。

サマリアの女の伝道した直後に弟子たちが食料調達から帰ってきます。イエス・キリストに弟子たちは食べ物を勧めますが、主イエスはつれない返事です。私も最近まで真意をくみ取り切れていなかったのですが、女性に福音を伝えたイエス・キリストは飢えや渇きを覚えていなかったのでしょうか?いいえ、疲れていたはずです。お腹もすいていたすいていたはずです。ただ、ある注解書にはここにイエスキリストのsatisfactionが示されているとありました。まさに我が意を得たりです。肉体は確かに空腹であったのですが、イエス様はそれ以上に満足(満腹)していたのです。「お腹はすいているけど、本懐を遂げることができて、胸いっぱい」といったところでしょうか?

キリスト者が伝道できるということは花が咲くことによって愛でられる、道具が意図したとおりに用いられて喜ばれる。「実存が本質に先立つ」とはサルトルのことばですが、彼の言葉を借りるまでもなく、実存と本質が合致するのを見たのです。

本年度の教会の標語は宣教する教会です。言い換えるなら、あなたの本質に従ったあなたらしいあなたという実存を獲得するということでもあります。キリストの福音は今日、イエス・キリストを信じて、今日キリスト教の伝道者になることだって出来るのです。

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