あなたは神の前に裸の王様ではないか?
ここまで、問題の多いコリントの教会であってもパウロはその教会を「神の教会」、「神の聖徒たち」とよび、頭ごなしに裁かず、敬愛をもって接していました。にもかかわらず、4章の中段ではひどい皮肉を持って非難しはじめます。あなた方が満ち足りた王様になっていて、私たち使徒は引きずり出される死刑囚のようだというのです。この死刑囚とは映画、「ベン・ハー」や「グラディエーター」のように死ぬまで剣闘をさせられる凄惨極まりないものです。しかも、天使にも人にも見世物になっている(4:9)との言い回しから、現世においても常世においてもという意味合いをもってきます。これは、コリントの人たちが王様気取りであることも、この世だけでなく、天においても王でもないのに、王であるキリストを際置いて、王の食卓を横取りしているという意味合いまで持ちますから、大変辛辣なコリント教会への非難であり、裁きです。直前の4章冒頭では裁くなと言っていたのにこれはどうしたことでしょうか?フィリピ4章11節にはパウロは自身は耐乏生活に慣れているといっているので、他の新約聖書全体のパウロの思想とも大きく乖離した発言です。その理由に迫ってみます。
第一は闘争的な彼の性格が出てきてしまっているということです。私がパウロのそばにいれば、
「パウロさんそういうところですよ」と心配して声をかけるたくなるくらいです。パウロ派と反パウロ派が教会内に出てきてしまった遠因とも言えるでしょう。
第二はパウロもユダヤ人、ヘブライ人だったということです。ユダヤ人らしい修辞法(対句法)を使って表現したからと言えます。本日も詩編40編を交読しましたが、同編の15節~17節にも自身を攻撃するものを極端にこき落とし、神の側につくものを極端に持ち上げています。ヘブライの詩というのはこのような極端なアゲとサゲでそのコントラストを謡うものです。ここでも「満ち足りた王様」と「縄に引かれる死刑囚」これ以上ないほどの極端な境遇の差を表現しています。
第三に、コリントの教会は
①教会内で裁いてはいけない問題を裁き、(礼拝や宣教のスタイルで派閥を好き嫌いで他派をさばいていた)、
②裁かなければならない問題を放置(教会内でも不倫、重婚や教会員どうしの民事上の紛争を教会外の裁判所に委託するありさまだった)していました。
4章はちょうどその話題のきりかわることころで、①について王のように裁いていけないのに裁いていることへの自重をもとめることと、②について王になるべきでない人が王になってしまっているとことへの強い非難することが ないまぜになっています。
以上のことから、全体としてオブラードをかぶせたような柔らかい表現をしていますが、この4章の中段で本当はコリントの教会がかなりひどい惨状だったことがわかります。しかし、本当にひどい教会だということで終始するのではなくて、ひどい教会なのにもかかわらず、パウロのリアクションとしては、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」12b~13節なのです。
このように忍従することは常人にはむりです。どうしてこのようにしてパウロはその教会を愛したのでしょうか。その姿は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Ⅰペテロ2章23~24)にあるようなまさにキリストに倣ったものでした。そう、私たちにはそこまで忍従する愛はないのですが、キリストによって、その力をえるのです。そして、コリント書を読むすすめると、どうやら、パウロの姿勢に同調する聖徒が何人か教会におこされはじめてきたようなのです。やっぱり教会って捨てたもんじゃないのです。
サムネイルは ジャン=レオン・ジェローム画『指し降ろされた親指』
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