Ⅰコリント4章7~21節 「ミミック、真似してご覧」

説教

ミミック、真似してご覧

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
(エフェソの信徒への手紙5章1節)とあるように私たちは、究極的には神に、キリストに倣う者であって、人に倣う者ではありません。そのために、このコリント書4章まではパウロにつくとかアポロに付くといった人について教会内で派閥形成をすることを口酸っぱくパウロ諫めて来ました。その舌の根も乾かないうちに、パウロは「私に倣う者となりなさい(4:16)」というのです。

「指示待ち族になるな、自分の頭で考えろ」といって怒っているうちに、

「余計なことをするな、言われた通り、言われたことだけしろ」と

叱責の途中で論旨が180度代わってしまう理不尽な上司のようにも見えますが、これは先週も話した通り、5章に至る話題の転換点と、5章以降に扱う問題が緊急を要する重大問題であったことに起因します。

また、16節の「倣う」は「ミミティス」というギリシャ語で英語の「ミミック」「真似をする」の語源になった単語で新約聖書ではパウロが多用する言葉ではあります。(ゲーム好きの私からすれば、ミミックと聞けば、某テレビゲームに出てくる宝箱の形をしたお化けを想起してしまいます(笑))
第二テサロニケ3:7~9、第一テサロニケ2:14に用例が出てきており、前者は「働いて糧を得るという生き様を学べ」、後者は「同様の苦難を経験して、意図せずして勉強させられた」という意味です。考えてみれば日本語も「まなぶ」も、「まねる」から変化して出来た言葉だそうです。17節の「わたしの生き方」とは原文では「わたしの道」です。パウロは単なるサルマネに留まらない、「生き方を学ぶ」をコリントの教会に求めました。もっと言えば「哲学」「理念」「価値観」です。それが、抽象的で分からないというのであれば、それを具現化したのがテモテであって、信仰によるまことの子テモテを遣わすことで信仰の父であり、コリント教会の父であるパウロの思いを知ってほしい、それは天の唯一の父なる神様の御心を知ってほしいということでありましょう。あえて、パウロは自分の立場を父に擬制するのは、日本語でも、「マニュアルにそった、通り一辺倒なことではなくて、君とは親しいし、長い付き合いやから、ここだけの話、言わしてもらうけどな…」等とあえて話す対象との縁に触れて、距離を詰めて、真剣な話、冗談が許されない話をすることがありますが、まさにそれです。心から、心から、心から、生き様に倣ってほしい彼の切実なコリントの兄弟姉妹への迫りを、自身へのキリストからの迫りとしてうけとりたいものです。

サムネイルは「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世」ジュゼッペ・アーチボルト画

コメント

タイトルとURLをコピーしました